【全文】「公害問題と教会」マタイによる福音書18章10~14節

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。マタイ18:10

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に、こどもの声を聞きながら、礼拝できること感謝です。先週は相模中央教会の礼拝で奉仕をしてまいりました。不在の時の信徒宣教に感謝します。

今月は環境ということをテーマに宣教をします。今日は収穫感謝礼拝でもあります。日々の恵み、特に神様からいただく、大地の恵み海の恵みに感謝してこの礼拝をおささげしましょう。

今日の宣教題を「公害問題と教会」という宣教題としました。公害問題と教会に何か関わりがあるのですか?とよく聞かれます。教会と公害問題は関係ないのではないか、それに取り組むことは教会の仕事ではないのではないかと言われます。

しかし私は公害問題に関わることは教会の基本的な働きだと感じています。そのことを水俣病や足尾銅山鉱毒事件など有名な公害問題から考えたいと思っています。また特にみなさんご存じのように、この水俣病は恵みの海だったはずの場所を、人間が壊し、奪ったという公害でもありました。

水俣病は1950年代から熊本県水俣市を中心に起きた公害問題です。チッソ株式会社という企業の工場排水には有機水銀が含まれていました。有機水銀はプランクトンに取り込まれ、それを食べる魚、それを食べる魚とどんどん凝縮されました。まず魚を食べる多くの猫が、もがき苦しみ、狂い死にをしました。そして次第に様々な症状が人間にも現れました。

その魚を食べた人間も水銀中毒になったのです。水銀中毒は脳神経を壊し、視野狭窄や、まっすぐ立っていることができない、全身の痙攣がとまらない、言語障がい、聴力障がいなど様々な症状を引き起こします。それは治ることがありません。またその症状は胎児・生まれてくる赤ちゃんにも見られたのです。

当初原因がわからず、人から人にうつる脳の感染症と考えられました。そして町には激しい分断と差別が起きます。人々は自分や家族に症状が出ても隠したのです。就職や、結婚ができないかもしれない。差別を受けたくない。人々は症状や出身地を隠し、生きたのです。被害の実態調査も非常に難しいものでした。激しく差別されてきた人は、医師に見せたくなかった、写真を撮られたくなかったのです。水俣の人々は声を上げることができなかったのです。

原因企業であるチッソ株式会社は当時、日本を代表する化学メーカー、エリート企業でした。地域の人々はみなチッソにものを言うことなどできません。かなり早くからチッソの工場排水が疑われていましたが、チッソは自分たちが原因と知りながらそれを隠蔽し、損失を最小限にしようとしました。貧しい漁師に少ない解決金で和解をもちかけます。人々は今日生きるお金を受け取らざるをえず、被害を訴えることができませんでした。被害を訴えるその声は大企業にかき消されてしまったのです。

教会とこの水俣病にどんな関係があるでしょうか。関係ないように見えます。確かに水俣病の歴史の中に教会はほとんど登場しません。でも本当に関係ないのでしょうか。水俣にも当然教会がいくつもありました。人々の命が軽んじられ、ふみにじられ、差別されていたとき時も毎週礼拝を繰り返したでしょう。でも教会が声をあげたという記録はありません。もし平塚で同じ問題が起きたらどうでしょうか。平塚のある企業から工場排水が相模湾に流れ、魚も猫も人も死ぬとき、私たちの教会と関係がないはずはありません。

公害問題とは企業の利益と、人間の命のどちらを優先するかという問題です。多少の犠牲がでても、安い、便利なものを手に入れたいという、人々の欲望が集まって、公害問題が生まれます。公害が起きてから、差別がうまれるのではありません。もともと命の差別があるところに、命への軽視があるところに、公害が生まれるのです。誰かが犠牲になってよいという発想自体が公害を生むのです。

私たちの社会は99人の人の便利や利益のために、1人が犠牲となり我慢をしなければいけない社会なのでしょうか。私の命は70億分の1の命で、他の多くの人のためなら犠牲になってもしょうがない命なのでしょうか。

私は違うと思います。そして何より聖書が違うと語っていると思います。1つの命が大事だ、小さな命が大事だ、聖書はそのように語っていると思います。今日はその箇所を見たいのです。

 

 

今日の聖書箇所を見てゆきましょう。今日は99匹と1匹の羊の話です。ある時、100匹の羊の群れの中の1匹がいなくなってしまいました。当時の羊飼いは羊を移動させながら、草のある場所を巡りました。その途中で、迷子になってしまう羊がいたのです。

羊が迷子になった理由はわかりません。自分の意志ではぐれたのか、他の羊にいじめられてはじき出されたのか、けがをして遅れてしまったかもしれません。誰の責任かはわかりません。

羊飼いにとっては、失われた羊が生きているか、死んでしまっているかも、わかりません。生きていても大きなけがをしているかもしれません。それでも羊飼いは探しに出かけます。そしてとことん探すのです。1匹でもひたすら探すのが羊飼いです。それは一匹一匹を大事にするからです。羊飼いにとって、1匹は100分の1ではありません。100匹いたら、1匹くらい死んでもしょうがないとは思わないのです。羊飼いはたった1匹のために時間と労力を使い、危険を冒して探しだすのです。

羊飼いは探しに出てゆくと、羊がいないかよく目を凝らします。動くものがないか、茂みの陰にいないか、暗い場所にいないか、隠れていないかを見つけようとします。そして羊飼いは羊に呼びかけるでしょう。声をかけ、自らのところ、仲間のところ、安心して過ごせる場所に戻ってくるように呼び掛けるのです。そして羊飼いは耳を立てて声を聞こうとするでしょう。羊の小さな声が聞こえないか耳を澄ませ、小さなうめき声が聞こえないか、おびえて隠れる息遣いが聞こえないか耳を澄ますのです。羊飼いはそのように注意をして、羊を探すのです。

そして羊が見つかった時、その命を喜びます。見つけた羊飼いも、村の人々も、99匹も全員がその1匹の命を喜びます。そこでは99匹の命も、1匹の命も同じように大切に扱われます。たかだか1匹だからと言って、見下されたりしない、軽んじられないのです。

これは10節にあるとおり「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という話です。軽んじるとはどんなことでしょうか。聖書の軽んじるとは馬鹿にするという意味もあります。そしてその語源には下に考える、見下すという意味があります。1匹の命を、99匹の命より下だ、その命は99匹に対して価値の低いものだと見下すこと、それが軽んじるということです。羊飼いは迷った1匹の羊の命を見下さないのです。見捨てないのです。よく見て、よく聞き、大切な1匹を探し出すのです。

もちろんこの羊飼いは神様のことです。このように神様は99匹の安心のために1匹を犠牲にする方ではありません。神様は99匹の安心や、安全、便利や利益のために1匹を見捨てる方ではありません。神様は99匹を置いて、1匹を探し続けるお方です。神様は1匹を大切な命として、たったひとつの取り換えのきかない命として愛し、探すのです。

私たちはこの1匹の羊です。弱くて、迷ってしまう者です。神様が私たちを探し出し、道を示して下さるのです。そしてもう一つこの話が指し示すことがあるでしょう。それは私たちも羊飼いのようになるのだということです。私たちも1匹の命を探し、声を聞き、見つける者になるのだということです。

私たちの社会は多数派を優先する社会です。多数派が少数派を圧倒し、飲み込む世界にいます。水俣病はまさにそこのことを突き付けています。大企業が大多数の社会の利便性と利益の追求のために、工場から水銀を排出しました。

周囲の人々の命は、公害が始まる前から見下され、軽んじられていました。人々は痛んでも、苦しんでも、声をあげることができませんでした。そして声を上げても、それはかき消され、無視され続けました。それはまるで探されなかった羊のようです。水俣の人々はまるで探されない、見つけられない、声をだせない、声を聞かれない羊のようでした。それは99匹のために、犠牲になろうとしている1匹のようです。

私は今日の物語から、そのような1人を探し出しなさいと聞こえます。私たち自身が苦しむ1匹を探し、目を止め、声を聞き、共に安心して暮らす場所を見つけるようにと促されているのです。

私たちは探されるだけではなく、探したいのです。忘れられてしまうような一人の命を見つけ、見つめ、声を聞きたいのです。その命を守り、小さな声に耳を傾けてゆきたいのです。その1匹を探し、声を聞くこと、それは本当に教会の大切な使命ではなでしょうか。

いま私たちの教会は何をすべきでしょうか。今も世界中で水銀による被害が繰り返されています。特にそれは金の採掘現場で起きています。まさしく、命より金(キン・カネ)が優先され、公害問題が起きているのです。

教会は何をすべきか、公害問題から問われます。私たちにすべてができるわけではありません、問題を解決できるわけではありません。でも私たちは痛む一人を探し続け、声を聞くことができるのではないでしょうか?一緒に平安の場所、世界を目指すことができるのではないでしょうか。今日の聖書の箇所はそのことを指し示しているのではないでしょうか。

教会にこそ、利益や多数派によって失われる命に目を向けることができるでしょう。教会こそ欲望と差別を捨て、1人の命を守ることを訴えてゆけるでしょう。神様は私を探し出し、導いてくださるお方です。そして私たちも小さな声、小さくされている命、1匹を探し、その声に耳を傾けたいのです。公害問題から教会はそのように突き動かされるのです。お祈りいたします。