【全文】「私たちのバプテスマ」ローマ6章1~11節

 

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 ローマ信徒への手紙6章4節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

先ほど信仰告白とバプテスマ式を行いました。私の胸を撃ち抜いた言葉は「この教会の好きなところはこどもを大切にするところです」という告白です。この言葉は誰かに促されて入れたのではなく、本人の言葉でそのように告白がされました。

自分が大切にされていると感じる中でこそ、バプテスマは起こるのでしょう。そしてバプテスマを受け、自分も誰かを大切にしようと思うのでしょう。それがまさしく神の愛への応答という出来事です。自分は愛されている、だから自分も愛そうという決心、それこそがバプテスマの決心です。素晴らしい信仰の告白を主に感謝します。

そしてこのこどもを大切にするということは、私が来る以前、私がこどもを大切にする教会ですと語る以前から、教会が祈って決めていたことです。「こどもプロジェクト」という事柄が今日の事の起こりでしょう。私たちがこどもを愛すると決心した時が、今日の物語の始まりです。あるいはこの教会が幼稚園を始めた時、それを終えてもなおこどもに関わろうとした時、それがこの物語の始まりだったのでしょう。今日までの主の不思議な恵みと導きに感謝します。

今日初めてこの儀式を見たという方もいらっしゃるでしょう。このバプテスマ式とは、キリスト教の入信の儀式です。自分の言葉で信じていることを公にし、後ろにある大きな浴槽・バプテストリーに全身を沈めます。その時からクリスチャンとなります。私たちの教会にとっても久しぶりの出来事でした。

今日までご本人とはバプテスマクラスを重ね、聖書の事や、特にバプテスマの意味を一緒に学んできました。しかしバプテスマの意味をすべて理解したわけではありません。すべて理解してバプテスマを受ける人はいないでしょう。皆、意味がよくわからないまま受けるのです。それが何かわからないままクリスチャンになるのです。

そして何十年か信仰を重ねれば、その意味わかるということでもないでしょう。私たち一人一人が、人生の中でそれはどんな意味があったのかを問いかけ続けることになります。バプテスマとは何か、クリスチャンとは何かを問い続けながら生きるのが、クリスチャンと言えるでしょう。でもそれはやってみないと、はじめてみないとわからないものです。バプテスマが先にあって、それから生き方がついてくるとも言えるでしょう。

わからないにも関わらず信仰を告白することができるのは、聖霊の導きだと信じます。自分ではよくわからないにも関わらず、聖霊がその口を使って信仰の告白をさせます。聖霊がその口に言葉を与えた時がバプテスマを受ける時で、今日だったのです。

今日が新しい誕生日となります。誕生日、私たちはどうして生まれてきたのか、どう生きていくのか知らずに生まれました。そして今もまだ知らないのです。でも確かに誕生日から私の歩みが始まったはずです。そのようなスタートが今日始まります。

私がバプテスマを受けた時、これで自分も少しはましな人間になるかなと思いました。2節にもあるとおり、もうかつての私は死に、罪の中に生きないと思ったのです。パウロは「なおも罪の中にいることなどできない」と言っています。

しかし私がバプテスマを受けても、罪が清められ、穢れが取り払われ、聖なる人になったわけではありませんでした。水から上がっても、すぐに罪を犯しました。水に入る以前と同じように、人を傷つけ、イエス様に従うことができず、悩み、苦しみました。

バプテスマを受けた後にかえって苦しむということも起こるかもしれません。クリスチャンになったにも関わらず、引き続き人を傷つけてしまう自分が嫌になるかもしれません。

でもバプテスマを受けると過去の罪やこれからの罪が消えて無くなるわけではないのです。バプテスマは人間を完全な者にするわけではありません。バプテスマが人間を完成させるのでもありません。バプテスマは救いを完成させるものではないのです。バプテスマを受けてもなお私たち人間は未完成なのです。

しかしそれでも確かにバプテスマは人生の新しいスタートです。命の新しいスタートです。3節を見ましょう。私たちはイエス様に結ばれるためにバプテスマを受けたとあります。私たちのバプテスマとはイエス様と結ばれる出来事なのです。私たちの新しいスタートとは、イエス様に結び付けられて歩むスタートということなのです。

5節にも似たことが書いてあります。バプテスマはキリストと一体になることだとあります。バプテスマとはイエス様に結び付けられて生きるようになることです。つまりあなたはもう一人ではないということです。イエス様と共に生きる者となったのです。そのように今日、生まれ変わるのです。

もちろん、イエス様はバプテスマを受けた人とも、受けていない人とも一緒にいて下さるお方です。気づいていなくても、どんなに逃げ回っても、一緒にいて下さるお方です。

バプテスマを受けるとは、今日から私も、私の側からもイエス様の歩みを共に歩むという表明です。私がイエス・キリストと共に歩む。私が結びつき、共に生きるという表明が信仰告白とバプテスマです。

この信仰告白とバプテスマによって、主イエスと共に、主イエスの様に、主イエスにあって生きるようになるのです。もう以前と生き方が変わるはずなのです。11節に、あなたはイエスに結ばれて、神に対して、神に向けて生きるようになるとあるのはそのことです。

もうかつての自分はいなくなります。以前の自分は6節十字架のキリストのように死んでしまうのです。これまでの人生はそこでいったん終わり、死に、今日から新しくイエス様と共に生きる、スタートになるのです。

この信仰告白とバプテスマは取り消すことができません。1回きりで、もう二度と受けることができません。それは焼き印のように、押しなおすことも、消し去ることもできないのです。そのように大事な、人生で一度きりの転換点です。

よくバプテスマをお葬式と誕生日と結婚式がひとつになったものとたとえることがあります。以前の人生が死に、新しく生まれ、キリストに結び付けられるということを今日の箇所が語っているでしょう。そのバプテスマを今日、執り行ったのです。

このバプテスマは、受ける人個人とイエス様の関係、一対一の結びつきの出来事です。それが一番大切な事です。でもイエス様とその一人の関係ができただけではありません。

私たちは今日から共にイエス様を信じ、従う群れとなるのです。今日からこの教会に集い、一緒に従う群れになるのです。イエス様に従おうとする時、イエス様との関係を考えるとき、必ず私たちは他者との関係ということを考えさせられます。

イエス様の教えはどのように、私たちが他者と関わるべきかを考えさせるものです。だからこれはバプテスマを受ける個人とイエス様の一対一の出来事であると同時に、私たち全員とイエス様の出来事でもあるのです。今日それを私たちは感じているでしょう。

今日のこのバプテスマは私たちの教会の出来事です。私たちに共に従う仲間、共に生きる仲間が与えられたという大切な私たちの出来事、私たちのバプテスマなのです。それを共に喜びましょう。そして共にスタートを切りましょう。

今日、バプテスマを受けた人全員が、自分がバプテスマを受けたあの日に引き戻されるでしょう。あの日確かに私にも聖霊が力を与え、告白をし、バプテスマを受けたのです。イエス様に従って歩むという告白をしたのです。

あの日から様々なことがそれぞれにあったでしょう。従えない時も、疑う時も、恵みも喜びもあったでしょう。私たちはあの日から、確かに主イエスと共に、新しい道を歩んでいいます。確かに私たちもあの日からスタートを切ったのです。その時は意味が分からかったかもしれませんし、今もまだ意味が分からないかもしれませんけれども、確かに新しい命をスタートしたのです。それぞれにそのことを覚えて、今日のバプテスマからもう一度歩み出しましょう。

今日新しい命が、主イエスと共に歩む決心をし、バプテスマを受け、キリストと結び付けられます。イエス様とバプテスマを受ける命の2つの命が結び付けられる時です。そして私たちの命ももう一度イエス様に結びけられ、互いに結び付けられるのです。その時を今日喜びましょう。そしてまた私たちに、私たちの中から、新しい決心が起こされるように祈りましょう。

 

お祈りをいたします。