「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節
私たちはこどもを大切にする教会です。しかし教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。こどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人、誰かの世話が必要な人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。
教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、一人では生きていけない人を大切にします。私たち一人一人は誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。
今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来ると語っています。今日の箇所を読みましょう。
聖書の時代、こどもは厳しい環境で生きなければなりませんでした。親や周りの大人はそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも触れてほしい、そう願って、連れて来てたのでしょう。大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。しかし13節の後半を見ると、弟子たちは怒っています。弟子たちの態度はま大人の気持ちを踏みにじるものでした。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだ、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。そしてそんな場面にイエス様が登場します。彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。
今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができません。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるようにと勧められています。
こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。
私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちは誰かに頼るこどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。私たちは神と互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。