【全文】「低きに生まれる神」マルコによる福音書1章1~13節

神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。

数年来入院しているKさんと、コロナが始まってから面会ができなくなってしまいました。彼は病院の公衆電話からよく電話をくれます。電話は不定期なのですが、祈祷会のある水曜日にかかってくることが多いような気がします。毎週祈っているよということを伝えています。

彼に面会できた時、彼は決まっての自分で書いた詩を束でくれました。その中にこんな詩がありました。

「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」

他にも考えさせられるような詩をたくさんもらって帰ってきます。確かに私たちは他人も、自分と同じものを見ていると思うものです。でも同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見て、初めて見えるものが違うことに気づくのです。しゃがんで見ることは大事なことです。会堂でしゃがんで見ると、こどもが頭をぶつけそうな危険な場所や、躓きそうな場所に気づきます。そして、しゃがむとクリスマスツリーがずっと大きく、きれいに見えることも発見します。

福音書を書いた人物もそうでしょう。4つの福音書はそれぞれ視点が違います。私たちは11月からマルコ福音書を読んでいますが、この特徴はイエス様の誕生物語、クリスマス物語が無いということが挙げられます。

マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。ヨセフも登場しません。マルコ福音書は、イエス様がどのような経緯で生まれたのか、まったくと言っていいほど伝えていないのです。それはマルコ福音書を書いた人が、イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。大きな視点の違いです。

今日の箇所でマルコが唯一、イエス様の出生に関する記載をしている点は、イエス様がガリラヤのナザレ出身だったということです。9節にそのように紹介されています。ガリラヤは中心地エルサレムや、ベツレヘムとは違う、農村地帯です。そしてその中でもナザレは小さな村です。マルコ福音書によればイエス様はイスラエルのはずれであるガリラヤ地方の小さな村ナザレから来た、出身だったと記しています。イエス様は無名の町でひっそりと生まれ、やって来たのです。

マルコとルカとマタイにはそれぞれに別のイエス様の誕生物語が記録されています。それはそれぞれの視点が違うからです。ルカは母マリアの視点から書かれ、身分の低い羊飼いがイエス様を見つけます。マタイは父ヨセフの視点から書かれ異教の占星術の学者がイエス様を見つけます。それぞれの記載で視点が異なることは、豊かな事です。

そして私はどの福音書にも一貫している、共通点があると思います。ベツレヘムだろうと、羊飼いだろうと、あるいはナザレであろうと変わらない意味、共通点があります。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。

そしてどの福音書にももう一つ共通しているのは、洗礼者ヨハネの記事が残されているという点です。そこには救い主を待ち望んだ人々の様子が記録されます。洗礼者ヨハネは7節「私の後に、私より優れた方」が来る、救い主が来ると宣べ伝えました。

それを聞いて、救い主を待つ多くの人々がユダヤ全土からヨハネの下に押し寄せたのです。厳しい現実に生きる人々は、強くその救い主の到来を待ち望んだのです。自分の体が、魂が救われるように、救い主に希望を見出そうとする人々が押し寄せました。

洗礼者ヨハネはそのように救い主を待ち望む人に、バプテスマを受けるように促しました。バプテスマを受けて、救い主を待つようにと言ったのです。4節をみると、そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。悔い改めに向けたバプテスマとも言えるでしょう。

よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、実際、悔い改めとは何を指すのでしょうか。案外曖昧なままで使っている言葉かもしれません。悔い改めとは、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。

悔い改めとは聖書の言葉ギリシャ語ではメタノイアという言葉です。メタは変わる、超えるという意味、ノイアは理解や判断を示す言葉です。つまり悔い改めとは、判断を変えるということです。

いわば悔い改めは、見る視点を変えるともいえるでしょう。悔い改めとはしゃがんで見ることです。今の自分の見方を変えてみることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです  。

この世界と現実が貧しい者にどう見えるか、小さくされている人にどのように見えるか、子どもにどのように見えるか、私たちの視点を変えるということ、それが悔い改めるということです。洗礼者ヨハネが語ったのは、そのためのバプテスマでした。新しい視点に立つこと、生き方・見方を変えてゆくこと、それが悔い改めに向けたバプテスマなのです。

9節には、イエス様もそのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も悔い改めに向けたバプテスマを受けたのです。反省すべきことがあったのでバプテスマを受けたのではありません。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。

イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水に深く沈んだのです。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。イエス様はバプテスマによって、最も低い場所に身を置くお方となったのです。それが悔い改め向けたバプテスマの意味です。

イエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」とイエス様だけに聞こえたとあります。そうです。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」だというのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。

私たちは本当にヨハネと同様、そのお方の靴ひもを解く、つまり奴隷の仕事さえする値打ちのない者かもしれません。しかし今日の箇所によれば、私は無価値だ、値打ちがないと思う、その低みにイエス様は現れる方なのです。このどん底から救われたいと願う人の列に共にいて下さるのがイエス様なのです。イエス様は私には神の前に進み出る資格などないと思う人にこそ、来られるお方なのです。

そして12節、バプテスマを受けると「神が」イエス様を荒野に送り出したとあります。荒野、悪魔の誘惑へと送り出したのは、神様です。神様はこのように、バプテスマを受けた者に何不自由のない生活を約束するのではありません。むしろ荒野へと送りだされるのです。

誕生物語と同様に、それがどんな誘惑だったのかマルコは記録していません。興味がなかったのでしょうか。しかし13節、荒野でイエス様は野獣と一緒にいたとあります。本来自らに襲い掛かってくる動物と、共にいることができたということです。視点を変え、荒野に送りだされた時、苦難や敵と思っていたものと争うことなく、共に生きる、平和に過ごすことができるようになったということです  。

私たちの歩みもそうです。バプテスマを受けると苦難がなくなるのではありません。むしろ神様はバプテスマを受けた私たちを再び荒野へと送り出すのです。試みの中で生きるようにさせるのです。しかし悔い改めをする時、視点を変える時、私たちはその荒野で、共に、平和に、生きることができるのです。

今日の箇所はこうです。イエス様はナザレと言う無名の小さな村から来られました。そして低い場所に身を置く、低い場所に視点を置くそのようなお方でした。それが悔い改めのバプテスマです。そしてそのような場所に身を置くとき、天から「神の心にかなう」と言われたお方でした。そして試練へと送り出されましたが、そこで共に、平和に生きるお方でした。

1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けたつまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの福音の初めなのです。そしてそう、それはマタイや、ルカにあるクリスマス物語と通じるものでしょう。

神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。

今私たちはイエス様を待ち望む、アドベントを持っています。私たちも救い主をもとめる大勢の一人です。

私たちはクリスマスに向けて、どこかに出かけるのではありません。イエス様を探しに出発するのではありません。この大勢の中にイエス様が現れたように私たちのもとに、取るに足らない小さな私に、イエス様は生まれてくださる、私たちはそれを待つのです。

来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。