【全文】「来年こそ、別の道」マタイ2章1節~12節

 

「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。            マタイによる福音書2章12節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。そして今日この主日礼拝で教会の集会は今年最後となります。共に礼拝をお献げしましょう。

もうすぐ2022年の元旦ですが、私は初詣というのに一度も行ったことがありません。どんなことをするのでしょうか。行った事のないというのは少し寂しい気もするものです。おみくじとかやってみたいものです。

キリスト教はおみくじのような、占いをまったく信じません。世の中には毎日たくさんの占いがありますが、私たちは占いで人生を決めるのではありません。占いには頼らないのです。クリスチャンは聖書の物語から神様の招き探し歩もうとします。もちろんどうすればいいかわからないこと、わかっていても従えないことがあります。占いのようにきっぱり答えを聞かせてくれた方が楽でしょう。しかし私たちは聖書に聞き、葛藤しながら歩むのです。

私たちは来年の運勢が大吉か小吉かどうかということよりも、来年も神様の招きに従って歩めるようにということを願います。私も今年はいろいろ、神様に従う歩みができず反省していることがあります。来年こそ、今年できなかった神様に従う歩みを、来年こそ、もう少ししたいと思っています。来年こそ神様に従い、礼拝をしたい、そんな気持ちでいます。

皆さんはどんな1年で、来年はどんな1年としたいと願っているでしょうか。まずは1年間神様に招かれて、繰り返し礼拝をできたこと、繰り返し礼拝から派遣されたことに感謝です。来年もまた共に礼拝をしてゆきましょう。

そして来年こそ、礼拝をしましょう。来年こそは、今年とは違う心で、また新たにされて、礼拝をお献げしましょう。そして精一杯の献げ物をしましょう。礼拝から始まる、礼拝から派遣される1週間を、来年こそ共に歩みましょう。そのように思っています。

私たちは来年も、そして来年こそ神様の招きをいただき、礼拝し、歩んでゆきましょう。今年とは違う、別の道を歩んでゆきましょう。今日は、神様は今いる道とは別の道に招いてくださるお方だということ。来年も私たちは神様に招かれて礼拝をする、別の道を歩む、きっとそれが私たちに起こるということ、そのことを一緒に聖書から読んでゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所、1節には「占星術の学者」とあります。以前の翻訳の聖書では「博士」と訳されていました。この個所は博士という言葉から「外国の偉い学者でさえ、イエス様にひれ伏しのだからキリスト教はすごい宗教なのだ」と解釈をされてきたかもしれません。

しかし近年においてはそのようには解釈はされません。この博士は占星術の学者と訳されて、星占いをする人だったとされています。星占いは各国で行われました。占い師は占いの結果をもとに王様に様々なアドバイスしたのです。

しかしイスラエルは占いをしませんでした。占いによる意思決定はしなかったです。イスラエルから見れば異教の占い師はペテン師、魔術師同然の存在でした。博士とは決して尊敬を込めた言葉ではありません。このように博士と聞くと誤解を生むということから、新共同訳では占星術の学者と訳されています。

これをもっと意味が伝わる表現としようとした翻訳には「星を読む占い師ども」という翻訳ありました。歓迎されない存在、疑わしいと思われている存在ということがよく表れている翻訳です。今日はあえて「占い師ども」と呼びましょう。とにかく疑わしい存在なのです。決してイスラエルでは歓迎・尊敬されるような人ではなかったのです 。

しかし神様の招きというは不思議なものです。神様は不思議なきっかけを使って、人々をご自分へと招くお方です。その選び方も不思議です。よりによってこの占い師どもが一番にキリストのもとへと招かれるのです。

これは神様の選びがよく表されている事柄だと思います。マタイによれば、一番最初にキリストの誕生を知ったのはこの占い師どもでした。ユダヤ人より早く占い師がキリストの誕生を知ったのです。

その選びは私たちの想像とは逆の選びです。私たちが神様からもっとも遠いと思っているその場所に、その人に、神様の選びと導きがあるということが示されているのです。それは私たちも押さえておきたい、神様の選びの特徴です。まさかそこにと思う場所、まさかあの人にと思う人に、神様の選びが隠されているということです。

神様は占い師どもをユダヤへと導きました。2節には占い師が旅の途中、ヘロデ王のところに寄ったとあります。時に王にアドバイスをした占い師である彼らは、きっと王の機嫌を伺うことには慣れていたでしょう。しかし彼らはヘロデ王に対して大変ぶしつけな態度をとっています。王にひれ伏すことなく「ユダヤの王として生まれた方はどこか」と聞いたのです。現職の王に、次の王はどこかと尋ねるのは大変失礼なことです。それは神様に導かれた彼らが、もうヘロデ王は王でない。新しい王がもういると信じているから出てきた言葉なのでしょう。

占い師どもはさらに、9節にあるように、先立つ星によって、先立つ神様によって招かれています。そして10節占い師はその招きを喜びにあふれたのです。11節占い師たちはついに星の下に幼子イエスを見つけました。占い師どもは今度はひれ伏して拝んだとあります。ヘロデ王への態度とは対照的です。

ここで言う「ひれ伏した」とはつまり礼拝をしたということです。彼らは星に導かれ、家に入り、主イエスを礼拝したのです。

11節は続いて、占い師どもが宝(黄金・乳香・没薬)を献げたとあります。この黄金・乳香・没薬の意味は諸説ありますが、わかっていません。ある説によればそれはもしかすると占いの道具だったのではないかと言われます。だとするとイエス様と出会って占いをやめて、主イエスを礼拝をすることにした。そのような解釈もできるかもしれません。

いずれにしても、何をあげた、どんな意味があったが重要な点ではありません。とにかく占い師が主イエスに出会うと、彼らは礼拝をしたのです。彼らは大切にしていたものを献げたくなったのです。何か気持ちを届けたくなったのです。応答したくなったのです。それは私たちと同じです。神様を礼拝し、大切にしているものを献げるのです。占い師にこのような応答が起こされたのです。

神様は疑わしいと思われた占い師どもを選び、彼らこそ礼拝へと招き、そして占い師どもは献げ物をしました。この物語はプレゼント物語ではありません。神様の豊かな選びと招き、人々の礼拝と応答が描かれている物語です。

12節に目を向けます。12節には占い師どもは「別の道を通って、自分たち国へと帰った」とあります。別の道とはどんな道でしょうか。それは直接的にはヘロデ王に寄らない道を示します。ヘロデ王に主イエスの誕生を知らせないという道です。

しかしこの「別の道」には、もっと深い意味を感じます。彼らの人生に起こった新しい道、新しいスタートを切ったということ、それが「別の道」です。別の道とはもはや王様に忖度する道ではありません。占いに頼って物事を決める道でもありません。イエス・キリストの道を歩み始めたと言うことです。

彼らはいつから別の道を歩み始めたでしょうか。振り返れば、神様が彼らに輝く星を見せたことがすでに別の道の始まりでした。その旅立ちがすでに別の道の始まりだったのです。そして、彼らはイエス様へ招かれ、礼拝し、応答し、献げ、元の場所へと戻っていったのです。それはすでに別の道の始まりでした。そして改めて、彼らは別の道を歩み出したのです。

これは大切なことを示していると思います。私たちが礼拝に集うということと似ていると思います。神様に招かれて礼拝に集うということ、喜んで礼拝し、そこで献げ物をするということ、そしてまたそれぞれのもといた場所に派遣されるということ、この毎週の私たちのサイクルと似ています。そして派遣される時、私たちは別の道、人間の道ではなく、主の道を歩む、そのようにして派遣されるのです。別の道に派遣されるのです。

私はこの「星を読む占い師ども」に自分を重ねます。私たちもこの占い師どもの様に、まさか私に神様の招きがあるのだろうかと思う者です。しかし神様の招きが確かに私にあり、礼拝する者となるのです。そして礼拝し、大切なものを献げます。そして1週間自分の思う道ではなく、別の道、主の道を歩むのです。私は自分がこの疑わしい占い師どもの一人のような気がします。

私たちはこの1年、どのような1年だったでしょうか。いろいろな言葉や出来事に惑わされた1年だったかもしれません。しかし神様は私たちを私たちはすでに、繰り返し招き、私たちは礼拝し、派遣され、別の道を歩むことができました。

神様が与えてくれた、イエス・キリストという星、光に向かって歩み続けた1年だったでしょう。たくさんの豊かな礼拝を献げることができました。たくさんの献げ物をすることができた1年でした。

そして今、私たちにまた新しい1年が始まろうとしています。新しい1週間が始まろうとしています。私たちにも疑わしい占い師どものように、神様はきっとまた別の道、主の道を準備してくださっているでしょう。

私たちは共にまたその道を歩みましょう。人の道ではない、別の道、主の道を共に歩みましょう。お祈りいたします。