「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

今月は宣教のテーマを信教の自由としています。葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。なぜなら葬儀の「主」は神様であり、親族や亡くなった故人でないからです。死を悲しむと同時に、人生に感謝し、神様に礼拝を献げることが目的です。故人の生前の偉業を評価することはしません。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題を避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。誰かを「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そうして戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。犠牲や失敗を美化してはいけないのです。私たちの人生には成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で、精一杯生きるということでしょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。あの人は良い種、あの人は悪い種という読み方は気分が悪いです。13節以降は後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。今日は、もう少し希望のある読み方をしましょう。

種をまくことは希望です。一方、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があります。それは希望の出来事の中でも、うまく実を結ばない出来事があるということです。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもすべてがうまくいくとは限らないのです。災難、病気、事故、感染症に振り回されることがある、それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともあるのです。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが私たちの人生なのです。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。他の人が好き勝手に人生を評価することや、失敗が美化されることは危険です。それはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。