【全文】「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

教会では、皆さんの葬儀の希望を聞いています。掲示スペースに用紙がありますので、お書きください。また、これ以外でもどんな形でも構いません。口頭でも、いつでも、何度でも希望をお伝えください。自分の死について考えることはきっと、今自分が誰と関わり、残りの人生をその人たちとどう生きるかということ、遺された人がどう生きてゆくかを考えることにつながるはずです。

今月は宣教のテーマを信教の自由としていますが、葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。

キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。それはきっと「主」という文字にあります。人生のすべて、最後の葬儀においても私たちの「主」は神様だけだからです。キリスト教の葬儀の中心「主」は親族ではなく、亡くなった故人でもありません。あくまで神様が主です。ですからキリスト教の葬儀では、亡くなった人を高い場所に祀ったり、大きな顔写真を掲示したりしません。あくまで神様を中心として、礼拝として進めます。

経歴の表記も控えめです。経歴が誕生、バプテスマ、召天日だけということも多いです。生前の業績をほめたたえたりもしません。長い戒名もつけません。葬儀の目的が故人の生前の偉業を評価することではないからです。

人間の人生には成功も失敗もあるはずです。失敗だけでもないし、成功だけでもないはずです。どちらも人生の一部だったということです。大事なのは与えられた命を神様の下で精一杯生きたということでしょう。そして葬儀で私たちは、命をくださった神様に感謝をし、遺された人たちがどう生きるかを考える、それが私たちの葬儀です。どんな風にそれを礼拝の中で表すのか、この教会は皆さんの希望、信教の自由を大切にしています。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題から避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。国のために命を落としたとは、主には天皇のために戦争をして命を落とした人のことです。靖国神社はA級戦犯も、空襲にあった民間人も、強制連行された朝鮮の人々も全員「国のために死んだ」霊として祀っています。

靖国神社は戦争で亡くなった方を本人や遺族の意思に関係なく「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そのようにして靖国神社は戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています。靖国神社は「ああ国のために死ぬことはなんと素晴らしいことか。国のために死ぬことは名誉なのだ」と思わせる仕組みです。それは必ず次の戦争につながるでしょう。

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。戦争の犠牲者を国のため、天皇のために死んだ名誉と評価し、美化することに反対します。人間はだれかの犠牲になってはいけないのです。犠牲を美化してはいけないのです。失敗を美化してはいけないのです。

私たちの人生に成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で誠実に生きる、精一杯生きるということでしょう。

精一杯生きるとは、自分自身の歩みや、天に召された人々の歩みから、痛みや苦しみ、失敗や成功を体験しながら生きることです。神様は成功も失敗も受けとめながら生きることを求めています。命に感謝し、良い事にも悪い事にも向き合う事、それが神様の下にある誠実な生き方、精一杯の生き方というのではないでしょうか。今日の聖書かからもそのことを聞いてゆきましょう。

 

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日の聖書箇所を1節~9節としました。13節~20節にもこのたとえの解釈が続いています。その解釈によれば、み言葉を受け入れる人は何十倍にも豊かにされ、受け入れない人は貧しくなるといいます。不信仰な私にとってはすこし息苦しい解釈です。

私はきっと道端や岩場のような人間です。反省が必要な人間です。人生がうまく

いかないのは、み言葉をしっかりと受け入れない人だからです。神様の言葉を聞いたのに教会に来なくなってしまった人がいます。その人は悪い種なのでしょうか。滅びるのでしょうか。一方、教会に来ている人は、何十倍も豊かになる種のでしょうか。あの人は良い種、あの人は悪い種、聖書をそういう読み方をしていると、少し気分が悪いです。

 

この13節以降はイエス様ご自身の説明というより、後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。なぜならイエス様はたとえの説明というものをあまりしないからです。さらになぞも残ります。14節を読むと、種とはみ言葉とたとえられているように聞こえますが、15節を見るとその種が今度は人間に例えられている様にも書かれています。

多くの神学者もこの13節以降のたとえの解釈は混乱していると指摘します。そしてそれゆえこのたとえ話、本来の意味は分からなってしまっているとも指摘します。簡単なようでこの話、実は答えがわからないたとえです。答えはひとつではないたとえです。答えを決めてはいけないたとえです。

今日は、もう少し希望のある読み方をしたいと思います。先週と同じように、種をまくことが希望だという読み方です。多くの収穫を期待する種まきは希望の出来事だということです。一方、今日の箇所には種まきはただ収穫を願う希望の時のみではないということも示されています。それは時に、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があるということです。希望の出来事の中でも、うまく実を結ばず、枯れてしまうような出来事があるということです。

私たちは多くの実りを期待して様々なことにチャレンジをします。種まきは人生のいろいろな努力や精一杯と言えるでしょう。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもそれはすべて、100%うまくいくとは限らないものです。時々、道端に落ちたり、鳥に食べられたり、岩場に落ちたりする。うまくいかないことがあったりするものです。

いろいろな災難に見舞われることがあります。病気もある、事故もある、感染症に振り回されることもあるのです。それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともある。それが私たちの人生です。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが人生なのではないでしょうか。

種をまくような希望が私たちにはあります。そしてやがて必ず収穫があるように、私たちにも神様の恵みが用意されていいます。その恵みと希望を、神様に感謝する生き方をしたいと思います。それが種をまくような生き方です。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。人生の良いところだけがとりあげられたり、他の人に好き勝手に人生が評価されたりすることです。あるいは失敗が美化されることです。失敗は失敗として、痛みは痛みとして、人生と人間の一部として受け止めることが大事です。実らなかったことは、実らなかったこととして受け止めてゆくことも大事です。

人生や死を美化したり、失敗をなかったことにしてはいけないのです。靖国神社はその死と悲しみを覆い隠すためにあります。国のために命を献げたという言葉で死と戦争を覆い隠しています。

もちろんキリスト教も戦時中、戦争に協力し、それを推進したという失敗を忘れてはいけません。私たちはその失敗を美化することなく、その死を美化することなく、歩みたいのです。人間は戦争という失敗をし、多くの人の命を奪ったことを覚えたいのです。私たちがまいた種、人間の歩みで実った種と実らなかった種があることを覚えておきたいのです。

そしてそれはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

私たちはたくさんの恵みを期待し、種をまきます。しかし意図に反しすべてが良い土地にまかれるわけではありません。人生には実らないこともあるのです。私たちはそのような中でも実りがあった時、神様に感謝します。そしてできなかったこと、実とならなかったことも、この種たとえ話のように覚えます。うまくいったことだけではなく、うまくいかなかったことも人生の一部だからです。実らない種を、見ない、隠す、美化するのではありません。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。お祈りします。