「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

転入会を歓迎します。誰かの死は人を大きく変えると感じます。死は人の気力を長く奪います。しかし同時に死は人を動かします。2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとって新しいスタートになります。終わりと思う場所は、終わりではなく、スタートにつながっているのです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

9節以降の〔カッコ〕は当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたのです。その後の復活のありさまについて記していないということです。これはとても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいたのです。

まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることです。あえて8節で終わらせイエス様が「ガリラヤに先にいっている」という印象を残して終わっているのです。

テレビドラマだとしたら視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。もう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示めされています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが神様はこのようにして、私たちを復活の主と出会わせて下さいます。終わりとスタートを結び付けてくださるのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。