「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

今月来月と「こひつじ食堂」から福音を考えています。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に関心を持って始まりました。しかし実際は誰でも利用できる食堂です。私たちも様々な人に利用してもらうため「こひつじ食堂」と名付けました。

そしてこの食堂では、宗教の布教活動を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることで、自己拡大ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えます。所得や年齢、宗教や民族も関係ありません。誰でも来ていい食堂です。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表し、証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。食堂は地域への私たちの証しです。今日の物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。一緒に読みましょう。

ティルス地方は異邦人の町です。異邦人である母は娘の病の癒しをイエス様に願いました。しかしイエス様は「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と応えます。犬とは異邦人のことです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしティルスは穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばし、豊かになった町です。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。まず貧しくされている国への助けが必要だということを言っています。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした

対する28節の「しかし、食卓の下の小犬も」という母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。そして母の発言はさらに、大切なことを示しています。神様の恵みはすべての人に開かれているはずだと言っているのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。この母がこの後どのように生きたのかを想像します。母はきっと子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。

私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。