【全文】「再発見、近所の教会」マルコ6章1節~6節

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた

マルコによる福音書6章4節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。5月・6月と「こひつじ食堂」と福音について考えてきました。この食堂は私たちの会堂を会場にして行われる、誰でも歓迎の食堂です。1食200円でお腹も心もいっぱいになれる食堂です。「こひつじ食堂」と福音というテーマは今日と来週の1回で終えようと思っています。振り返ると、聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」に重なる、つながる部分があったことを見てきました。「こひつじ食堂」は、とても聖書的な活動なのだと感じています。

「こひつじ食堂」を始めて近隣の方々のこの教会への注目度が上がっているのを実感しています。これまで多くの人が、自分と教会は関係ないと思っていました。しかし旗を立てて、食事を出し始めると多くの人が「教会が何か自分と関係があることをしている」そう思うようになりました。教会を身近に感じてもらえるようになってきました。

私は食堂の日も玄関に立つのですが、私が牧師ですと言うと驚かれます。牧師がエプロンを着た普通のおじさんだからです。牧師というと髭の生えた、カラーのついた服を着ている、白髪のおじいさんのイメージでしょうか。驚く相手からは「牧師が普通の人間だ」という表情が伝わってきます。食堂を通じて、教会のイメージが変わり、気軽さ、親しみやすさを感じてもらえることは、うれしいことです。利用される方は、近所に住んでいるけれど、初めて教会の内側に入ったという方が多いです。食堂は教会を身近な存在と感じてもらうきっかけになっています。礼拝ではなく食堂ですが「私はあの教会に毎回通っている」という人はものすごく増えています。

私たちはこの会堂の内側にいると気づかないのですが、この建物は立派です。風格があり、この通りのシンボル、この地域のシンボルです。しかし毎週、内側にいるからこそ気づかないことがあるのかもしれません。例えば、この風格だと入りづらい、のぞいてはいけないような気がする、そんな場所であるかもしれません。私たち内側の人間は、それに気づきづらいのでしょう。

でも一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、教会がぐっと身近になります。怖い場所じゃない、私も行っていい場所なのだ、気軽に立ち寄っていい場所なのだと感じてもらえるのです。私はこの食堂を通じて、教会をすごく身近に感じてもらえるようになっていると感じます。そして気づかされるのは、教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったということです。教会はもっと地域の人と関わる接点を持つことが必要だ、そう気づかされています。

いま全国のどこの教会でも、地域とどのように関わるかという模索が続き、苦戦をしています。私たちは「こひつじ食堂」によって、そのきっかけをつかみかけていると思います。そして教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうことでもあります。そしてどこかでそれはきっと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しません。でもこの食堂を通じて、宗教が身近な存在であること、キリスト教が身近な存在であること、神様は身近な存在であることが必ず伝わってゆくはずです。

神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」。それを伝えることに私たちはすでに一部で成功しているのではないでしょうか。食堂を通じて、教会の身近さ、神様の身近さはすでにこの平塚に大きく広がってきているのではないでしょうか。この福音を、もっと広げていきたい、そう思っています。

今日、聖書を読みます。私が「こひつじ食堂」から教えられた、神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。聖書を一緒に読みましょう。

 

今日の個所はマルコ福音書6章1節~6節です。イエス様は故郷に帰っていました。おそらくナザレでしょう。ナザレは小さな村です。旧約聖書には様々な町の名前が出てきますが、ナザレは一度もでてきません。それだけ小さな町、何もない町だったのです。誰もそんな場所からキリスト・自分を救ってくれる方が生まれるとは思わなかったのです。キリストがこんな場所に来るとも思わなかったのです。人々は、キリスト・救い主はもっと特別な人だと想像していました。そのような力の持つ人なら、きっと由緒正しいお生まれ、育ち、血筋に違いないと思ったのです。

そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いがありました。たとえ近づけたとしても、自分はそれに近づいてはいけない、汚れた存在だとも思ったでしょう。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。

2節にはイエス様の話を聞いて驚いたとあります。これは否定的意味での驚きです。「そんなことあるはずはないではないか」という意味です。ナザレの人々はすぐ拒絶反応を示しました。地域の人はイエス様がキリストではない理由を挙げ始めます。あいつはマリアの子だという表現は、普通は父親ヨセフの子だと表現されます。おそらく、父親が分からない、父親の定かではない男のくせにという出生に対する侮辱でしょう。彼は大工ではないかというのは、祭司の家系でもなんでもない、ありふれた職業の人間ではないかという、職業への侮辱でしょう。きょうだいも普通に私たちと生きていると言っています。要は「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」「そこらへんにいる普通の人間ではないか」そう言ったのです。

ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。しかしその神概念が信仰に入るのを妨げたのです。神様は自分の身近に、地元に、家族みたいに存在するものではないと思ったのです。だからナザレに現れた、目の前のキリストを信じることができなかったのです。

しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。生活のすぐそばに神様がいたのです。良く知っている場所、よく知っている人、近所のあの人のうちにおられたのです。それが今日、語られていることです。神様は近くにおられます。あなたの近くに、この地に、神様はおられるのです。神は我々と共にいる方、インマヌエルなのです。神様は私たちの日常の中にいたのです。先ほど、こどもさんび「祈ってごらんよわかるから」を歌いました。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。

もちろん神様は日常の中にいる存在というだけではありません。神様は奇跡を起こす方です。イエス様はたくさんの奇跡を起こしました。しかし今日の5節には、信仰の無い場所では神様の奇跡も、十分に働かなかったとあります。不信仰の中では、奇跡は大きな広がりがないのです。

決して私たちの信仰が奇跡を起こすわけではありません。奇跡はあくまで神様の自由な働きです。神様が起こす働きです。しかし、この個所にもあるように、人々の不信仰は神様の働きを小さなものとするのです。起こるべき奇跡が小さなものになってしまうのです。しかし逆に神様への信仰がある場所では、奇跡は大きく広がるということも意味するでしょう。奇跡は起こります。そして信仰の中に起る奇跡は、大きな広がりを見せるのです。

私たちは身近にいる神様にこそ気づいてゆきたいと思います。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことはそれです。伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。自分に関係ないと通りすぎていたところに、神様がいるということです。

そして信仰を持つ時、あなたに起こる、神様の奇跡はもっと豊かになるのです。ぜひ身近にこの教会を感じて欲しいと思います。そして、神様を身近に感じて欲しいと願います。「こひつじ食堂」からそれが起きて欲しいと思うのです。

そして、この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神の身近にいる者です。しかし今日の個所によれば、イエス・キリストに身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。神様の身近さを知らなかったのは、実はもっとも身近な者だったです。神様の身近にいる者こそ、神様のことをもっと受け入れ、知るべきだということです。

身近にいるのに信じられない者とは私のことです。私こそ、信じれない者、信仰の足りない者だったのです。私たちも、神様を信じて救われた者ではなく、神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様はすぐそこにいる、私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。教会の中にいるからこそ気づかないことがあるでしょう。神様は身近にいるという発見を、私たちももう一度したいのです。

私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。きっとこの働きは神様の奇跡をもっと大きくしてゆくはずです。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。