「礼拝に招かれたこどもたち」 マルコ10章13~16節

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マルコ10章14節

 

今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?こどもの声で集中できなかったという人、元気な声が聞こえてうれしいという人がいるでしょう。こどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。

それぞれの教会がこどもを大切にしようとしています。正解はひとつではありません。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切です。願うのは、大人によってこどもが排除されず、受け入れられることです。私たちなりにどのように、今のこどもを受け止めて、共に礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読みましょう。

13節は人々と書いてあるだけで、誰のことなのかはっきりしません。誰が、なぜ叱られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。礼拝者としてふさわしくない態度だと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。ちゃんと集中できない私です。礼拝者としてもとても不十分な私です。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。

この話の前の金持ちの男の話と共通するテーマがあります。それは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。

この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。こどもこそ招かれています。すべての人が招かれていると言えるでしょう。私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。でも神様はそのような私を招いてくださいます。きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。

今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。イエス様はこのように、こどもを、私たちを、招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちは神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。どのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。そしてイエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。