はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
マルコ14章9節
ある時、女性がイエス様に対して、頭から油を注ぎました。頭に油を注ぐことは聖書の中で特別な意味を持ちます。サムエルがサウルにしたように、この人は王様だと宣言する象徴行為です。今回は油を注ぐ役割を女性が担いました。最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしたのです。一方、女性の小さな献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、その後まっさきに逃げだしました。
しかしこの女性指導者は、時代と共に地位が下がります。ヨハネ福音書では頭ではなく足になり、ルカ福音書では罪深い女として登場し、娼婦とまで解釈されてゆきます。今日はこの女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。イエス様は頭に油を注ぐという女性の信仰の告白を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。受けてとめて下さるお方です。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はありません。
油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。この弟子の女性はイエス様がこのまま活動を続けたらきっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づいたのが、この女性だったのです。
大変高価な香油が、大量に使われたことも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。この女性はバランスを欠いているように思えます。しかし彼女は自らの収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。それは打算のない、時にかなった献げ物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださっています。
私たちに求められているのは、他の人の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節「記念として語り伝える」ということです。記念として語り伝える場所、それはまずこの礼拝です。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。
この女性を記念する礼拝とはどんな礼拝でしょうか。それは「この人が王だ」「この人が私の人生を導く」と告白をする礼拝です。イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて礼拝を続けてゆきましょう。
私たちは礼拝について考えてきました。この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。