「必要とされる喜び」ルカ2章1~7節

みなさん、こんばんは。今日はようこそおいで下さいました。平塚バプテスト教会の牧師の平野と申します。私たちの教会は「こどもを大切にする教会です」です。この教会では礼拝中、こどもたちに静かにおとなしく座っているようには求めていません。こどもたちの声や足音もこの礼拝の一部として、命の音としてそれを聞きながら礼拝をしています。一緒にその声、その音を聞きながら礼拝しましょう。

私たちはこどもを大切にするということの具体的実践として「こひつじ食堂」というこども食堂を実施しています。1食200円で地域の方と、楽しく会話し、食事ができるということで、毎回たくさんの方にご利用をいただき、長い行列ができています。

実は当初この食堂にこのような反響があると思ってもいませんでした。この活動が地域から必要とされるのだろうかと不安に思ってスタートしたのです。あるいは本当はこの教会自体が地域から必要とされているのかも少し不安でした。この教会がなくなったらどれくらいの人が寂しいと思ってくれるだろうかと不安に思っていました。しかし今地域に踏み出し、教会がこんなにも地域から愛され、必要とされていることをうれしく思っています。

最近は自分達だけでは手が回らず、手伝ってくださるボランティアさんが必要になってきました。たくさんの方々が活き活きとボランティアに参加してくださっています。みなさんがそこまで熱心に参加してくださる原動力はきっと、私たちの教会と同じだと思います。自分が必要とされるのか不安だったのに、今誰かに自分が必要とされている、そのことがうれしいのです。そのように活き活きしているボランティアさんの姿から力をもらい、私たちの教会ももっと地域の人々の必要に応えてゆきたいと励まされています。

自分が誰かに必要とされるということは、私たちが生きてゆく上でとても大切なことです。もちろん誰にも必要とされなくても、すべての命は大切な命です。でももし命があるとしたら、多くの人は誰かの役に立ちたい、どこか自分を必要としている場所に身を置きたいと思うものです。

誰かに必要とされることは、うれしいことです。誰かのために何か良い事をするのは気持ちいいものです。しかし反対に、誰にも必要とされないことは、とても不安で、とても深い悲しみです。誰かに必要とされることは、私たちが生きる意味に直結する問題です。誰にも必要とされていないと感じる時、人は生きる活力を大きく失います。

人も教会も同じです。誰かの役に立たなくても命はそれだけで尊いものです。でももし他者の必要に応えることができたら、自分を必要だと言ってくれる人に出会うことができたら、教会も人も活き活きと輝くはずです。

今日は聖書の箇所から必要とされないときの悲しみ、そして必要とされることの喜びを見てゆきたいと思います。そして他者のために生きる喜びを見てゆきたいと思います。

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クリスマスの絵本と聖書を読んでいただきました。イエス様は誕生においてどれほど人々から必要とされたでしょうか。実は、まったくと言っていいほど必要とされていません。イエス・キリストは誰からも必要とされない時代に生まれたのです。

その誕生はある日突然、天使によって予告されました。その妊娠はあまり良いタイミングではありませんでした。王様が人口を調べろと命令したのは税金をしっかりと取るためです。人を必要としたのではなく、動物と同じように、数を数えただけです。妊娠中のマリアと夫ヨセフは泊まる場所がありませんでした。家畜小屋に泊まることなり、そこで出産をします。その誕生は周囲からの励ましと支えがあったとは思えません。誰からも必要とされず、社会の隅に追いやられた誕生です。イエス様はこのように誕生において、多くの人にとって必要とされない命だったのです。

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされました。羊飼いは社会では疎まれる存在でした。嫌われ、避けられる存在でした。社会から必要ないと言われる存在でした。天使の知らせは、そのような必要がないと言われ続けた人に告げられたのです。しかし神の物語はそこが始まりです。誰からも必要とされないということから神の物語は始まります。

聖書にはこの後、イエス様が大人になってから様々な活動を始めたことが記されています。病人や、差別されている人、困っている人のもとを訪ねました。社会から必要ないと言われ悲しんでいた人々と手を取り合って活動をしました。様々な人と食事をしました。必要ないと言われた人々と食事をして歩いたのです。

イエス様の教えは隣人のために働くようにという教えでした。自分の必要のためだけではなく、他者の必要ために体を動かしなさいと教えたのです。隣人愛です。自分を愛し、自分の必要を満たすだけではなく、他者を愛し、他者の必要を満たしなさいと教えたのです。しかしイエス様は最後まで必要とされない人でした。この後、厄介者として十字架刑で殺されてしまうのです。

イエス様とはこのように必要ないと言われ続けた存在でした。それでも、いえそれだからこそ他者の愛し、他者の必要のために生きるようにと教えたお方でした。イエス様は誰からも必要とされず、愛されないことの不安と悲しみをよく知る人でした。そして他者を愛し、必要に応えるように教えた人でした。

私たちはこのような方を神の子だ、神と等しい存在だ、私を救ってくれる存在だと信じています。だから私たちは自分の存在がどんなに否定されても、自分のためだけではなく、他者のために生きたいと願っています。きっとその生き方が私もあなたも幸せにする、お互いの救いとなるのです。

私たちは今、手に小さなろうそくを持っています。たくさんあるので一つくらい無くても気づかないかもしれません。大きな光があれば、小さな光は必要ないかもしれません。でもいま皆さんがご覧のように、小さな光の集まりはとても美しいのです。小さな光が集まって、お互いを照らし合うと、とても美しいのです。私たちも小さくとも、互いを愛し合いましょう。きっともっと美しい世界に変わってゆくはずです。

みなさんの次の1年がこの光のように、小さくとも他者のために生きることができるように祈ります。あなたを必要とする人、あなたを必要とする場所にめぐり会い、活き活きと生きることができように祈ります。そして自分だけではなく、他者を愛し、隣人愛のうちに歩んでゆくことができるように、祈っています。お祈りします。