「教会と原発」エゼキエル3章16~21節

 

人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。  エゼキエル3章17節

 

今月は「旧約聖書」というテーマで宣教をします。今日は東日本大震災祈念礼拝です。私は「さよなら原発ひらつか」という市民活動に参加をしています。原発は犠牲のシステムの上に成り立った発電方法です。原発のある町はひとたび事故が起きれば命も、家族も、ふるさともすべて奪われる危険を都会のために引き受けています。「核のゴミ問題」も深刻です。行き場所のないゴミが増え続けています。この問題は「トイレのないマンション」と言われます。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、あれが日本の原子力政策です。トイレのないまま、再稼働、運転期間延長をしようとしています。まったく先のことを見ていない政策でです。

私はこの問題、一人一人の命を大切にする教会だからこそ、できることがあると思います。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。今のこの問題を、電気の問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあります。今日は教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。

エゼキエルは神様から預かった言葉を取り次ぐ「預言者」です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。見張り役とは高い塔から遠くを見渡し、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。危険を知ったら、すぐにラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民は危険に準備することができます。もし見張りがいなかったら準備の時間はありません。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけても自分だけ逃げたとしたら、それはとても無責任です。彼は自分だけのためではなく、町のすべての人のためにいるのです。人々に危険を警告するのが、見張り役の責任・使命です。神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。その働きはとても社会的な役割です。

預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られます。神様は悪人が滅ぶことを望んでいるのではありません。再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様はそれに気づくように、私たちに語り掛けています。

神様はこのような預言者の役割を教会へ、一人一人へと託しています。教会の役割は内側だけではなく、世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、次の世代に目を向けるのが役割です。教会ははるか先、命について、こどもたちについて考えるのが使命です。教会と一人一人は社会の中で先を見つめ、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちはそれぞれの場所で、共に預言者として働いてゆきましょう。お祈りします。