「神はどこにいるのか」イザヤ63章7~14節

 

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い

愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。

イザヤ63章9節

 

今は教会の暦ではレント・受難節です。イエス様の十字架を考える期間です。新約聖書のイエス様は人々に愛し合い、分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは受け入れられず十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されました。神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということをどのように考えればよいでしょうか。神様は他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、どこで、何をしていたのでしょうか。それを考えるのがレントです。

このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書・イザヤ書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。

神様は私たちをこどもとしてくださるお方です。当時の宗教の多くは戦争に勝った王様が、神様のこどもと考えられていました。王様以外の人間は神の子ではなく、ただの人間・生き物でした。しかしイスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。神様は戦争に勝った王と共にいるのではなく、すべての人、特に苦しんでいる人に私のこどもと呼びかけるのです。神様はどんなに苦しく、負け続けても、共にいるお方なのです。

9節には神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様はあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。何事にも動じない神様ではありません。11節以降には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いと答えがあります。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も、神様は必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導いてくださるのです。

私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知り、そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られ、私たちと共にいる者として歩まれました。そして十字架で「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方でした。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。そして神様は復活によって苦難と死で終わらない希望を示しました。

レント・受難節はただ痛くてかわいそうと考える時ではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様は死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。