「愛に生きよう」ルカ23章32~49節

議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」         ルカ福音書23章35節

 

信仰入門というテーマで2か月間、宣教をします。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、愛とは何でしょうか。日本語で「愛」は「恋愛」を指す、ドキドキする気持ちを表す言葉です。しかし聖書の愛とは、もともとアガペーという言葉です。アガペーは恋愛とは違い「大切にする」という意味です。相手を大切に思うことが愛する、アガペーすることなのです。ですから好きになれないところがあってよいのです。嫌いでもお互いを大切にするのがアガペーです。イエスは人々にお互いを大切にするように教えました。そしてその考えに深く共感する人がたくさんいました。

しかしイエスは十字架刑で殺されてしまうことになります。十字架刑とは何週間も苦しみながら死んでゆく極めて残酷な死刑の方法です。なぜこの残酷な処刑装置が、キリスト教のシンボルなのでしょうか。それは十字架に到るまで、他者を愛し、大切にしたというイエスの姿を忘れないためです。そのことは私たちの聖典である、聖書に書いてあります。

今日の場面はイエスが十字架に架けられている場面です。イエスは十字架上で、様々な人から侮辱をされています。35節では政治家である議員から、36節では兵士から、39節では、同時に十字架刑になっている犯罪者からです。3人は口をそろえて言います。「自分を救え」。イエスを殺そうとした人とは、自分のためだけに生きてきた人でした。彼らにはその生き方がまったくわからなかったのです。なぜ自分のためではないのか?自分にメリットがないのになぜそのような生き方をするのかと疑問に思ったのです。だから彼らは「自分を救ってみろ」と言うのです。

しかし、登場人物の中にはごく少数、イエスの十字架の痛みを知り、共感する人がいました。同じく十字架に架けられている二人の中の一人です。彼は最期が迫ってくる時、自分ではなく、他者の痛みに共感し、他者を大切に思いました。

この十字架の出来事の上に、イエスの生き方が凝縮されています。まず自分のために頑張れ、まず自分、自分を優先させろ、そのような時代と声の中で生きた人がイエスでした。自分が大事、その思いに飲み込まれた人々が、イエスを十字架に架けたのです。しかし、イエスは最後までアガペーを貫いたお方です。私たちは苦難の時もアガペー、愛をもって生きることを忘れないために十字架をシンボルにしています。

私たちがこの宗教を信じているのは自分が天国・楽園に行くために信じているのではありません。どこまでも愛・アガペー・他者のために生きるために信じているのです。私たちもこのような愛を実践したいと願って信じているのです。

そして私たちはこの生き方に一人でも多くの人に加わって欲しいと思っています。その生き方は、毎週の礼拝の中で、その愛・アガペーを確かめ、それぞれの場所愛・アガペーを実践するという生き方です。そのような仲間が一人でも増えて欲しいと願っています。お祈りします。