使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。ルカ24章11節
イースターおめでとうございます。今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。教会は信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。でも長く教会に通っていると疑問だったことを忘れてしまいます。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が疑問を思い出すことができます。
今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという復活信仰があります。しかしクリスチャンでも、復活の出来事を猛烈に信じている人ばかりではありません。復活とは何でしょうか。
復活とは心肺蘇生を指すことではないでしょう。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。そこから何かが起きたのです。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残ることが復活だと考えるのはどうでしょうか。それならば、信じるというハードルは低いです。でもイエスはこの後「私には肉も骨もある」と言っています。復活を心の中の問題にしてはいけません。心理学から考えると復活は幻視体験です。行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、ヒントもあります。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは実体験としてはっきりと見たのです。これは聖書の記述と多くの共通点があります。
私個人はまだ結論がでないままです。でも少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。そのように問い続けるのが信仰です。今日の聖書箇所からそのことを見ましょう。
今日はルカ24章1~12節をお読みしました。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなってしまいました。女性たちは何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいます。もし女性たちが復活を信じていたのなら、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。しかしそうはなりませんでした。男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。
私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。おそらく信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。
クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。