「ごゆっくりどうぞ」詩編23編1~6節

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 詩編23編1~3節

 

今月は地域協働をテーマに宣教しています。こひつじ食堂にまつるエピソードをいつくか紹介します。いつもお弁当を買うおばあちゃんがいます。先日、町であって挨拶すると、お疲れの様子でした。おばあちゃんは「本当は私も食堂のお手伝いしたいのだけど、95歳で要介護3の親が同居していて介護が大変なのよ」と言っていました。「また気分転換に食堂に来てくださいね」と言いました。

きれいなマンションに住んでいる人がお弁当の列に並んでいました。その方は一人暮らしですが、夕食分と明日のお昼の分2個のお弁当を買いました。すると後から生活保護を受けているおじちゃんが、並びました。そして行列に並んでいる最中に疲れて座り込んでしまいました。もうすぐお弁当は売り切れです。見かねた女性は「自分の分を一つあげてもいい」「お金はいらないから、あのおじちゃんにあげて」と言いました。私はそのお弁当を受け取って、おじちゃんに手渡しました。

いつも営業終了間際に来るおじさんがいます。お代わりしたいとか、あっちの席で食べたいとか、いろいろわがままを言うおじさんです。彼は帰りがけに「また来ます、俺は奥さんにも、家族にも逃げられちゃって寂しいからさ」と言い残して帰っていきました。「また来てね」と言いました。

教会が地域の方とこのように関わることが出来ていることがうれしいです。しかもその関係が伝える、教わるといった堅苦しいものではなく、どこかほのぼのとするような、ほっとするような関係であることがうれしいです。このような地域との関わりが、教会からもっと広がってゆけばよいと思っています。

私は今日の聖書の個所にも、食堂のほのぼのとした風景と同じ印象を持っています。ほのぼのとした教会と地域の関わりをイメージしながら、この個所を読みたいと思いました。私は食堂を利用している方たちに、教会がこんな印象を与えられたらいいなと思いました。

1節、教会は、自分に足りない物が何かをとやかく言われる場所ではありません。いわゆる説教される場所ではありません。教会に来たら、ああ私にはたくさんの恵みがあって、たくさんの仲間がいて、自分に欠けているものなんて、ちっともない。教会はそのように思えるような場所になりたいです。

5節、苦しい時こそ、教会は食卓を整えて迎えましょう。私たちは杯があふれるほど、蓋が閉まらないほどのお弁当を作って、皆さんを迎えましょう。教会はそのような場所になりたいです。神様がそのように杯をあふれさせるお方だからです。

6節、命ある限り、慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。ずっと来たい、自分の家のようだ、ずっと元気でいよう、教会がそんな活力につながるのならうれしいです。そして食堂の雰囲気を通じて、生きる力をくれる神様の事も伝わったらうれしいです。お祈りします。