「神聖な生き方」マタイによる福音書6章9~13節

御名が崇められますように。 マタイによる福音書6章9節

 

主の祈りについて宣教をしています。今日は主の祈りの「願わくは御名を崇めさせたえ」について意味を考えましょう。大事なのは「御名を崇めさせたまえ」です。

御名(みな)とはキリスト教用語です。キリスト教では神様のことについて頭に「御(み)」をつけます。人びとは神様の名前をみだりに唱えないために、神様のことを「御名」と言い換えました。

「崇めさせたまえ」とは「聖なるものとなりますように」という意味です。神様を聖なるものとするとはどんなことでしょうか。反対に神様を汚すこと、神様の顔に泥を塗るなら、私たちは簡単に想像ができるかもしれません。

たとえば日本の教会では戦時中、戦闘機購入のための献金が熱心に募られました。当時のバプテスト教会も熱心に協力をしました。戦闘機には「日本基督教団号」と書かれ、戦争へと旅立っていったそうです。教会は戦争に熱心に協力をしました。これは神様の顔に泥を塗ることです。広島に原爆を落とした飛行機エノラゲイは出発前、牧師が作戦成功の祈りをささげたそうです。これも神様を汚すことです。ナチスドイツの兵士のヘルメットにも「神は我々と共にいる」と記されていたそうです。

このようなことが神の名を汚すことといえるでしょう。戦争のために神が利用されました。みだりに神の名が唱えられ、汚されました。神を聖なるものとせず、あがめず、自分たちを正当化するために利用したのです。「崇めさせたまえ」「聖なるものとされますように」というこの祈りは、神を汚すことが起りませんように、私たちが神様を聖なる存在にし続けることができるようにという祈りです。

レビ記19章2節(191ページ)では神様が私たちにこう呼びかけています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」そしてその後に、聖なる生き方とはどのような生き方なのかが書いてあります。貧しい人や外国人と食べ物を分かち合え。盗むな。嘘をつくな。奪い取るな。雇人は賃金をちゃんと払え・・・。神様はそれが聖なる生き方であり、神様を聖とする生き方だと教えています。そしてレビ記19章18節には「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。これはイエス様がもっとも大事なことだと言った箇所です。これが聖なる生き方です。隣人を愛して生きる事、それが“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”なのです。神様を聖とすること、それはなにより私たちが互いに愛し合って生きるということです。神を聖とすることとは、私たちがお互いを大切にしあうことです。御名を崇めるとは私たちが愛し合う事なのです。

私たちは「御名を崇めさせたまえ」をどう祈ったらよいでしょうか。聖書によれば私たちが愛し合うことが、神様を聖なるものとすることです。私たちは神様の名が聖なるものとして、崇められるように祈ります。そしてこの祈りに促されて、お互いを大事にしあうという“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”を始めたいと思います。最後に一緒に主の祈りを祈りましょう。