「貧困撲滅祈祷」マタイ6章9~13節

我らの日用の糧を今日も与えたまえ マタイ6章11節

 

今月と来月は主の祈りをテーマとして宣教をしています。この祈りには食べ物を求める祈りと、心が満たされることを求める祈りの2つの側面があります。今日はそれぞれの側面を見てゆきたいと思っています。

イエス様の時代、飢饉と貧困と格差は大きな社会問題でした。食べ物が無い飢餓の様子は地獄の様でした。飢饉の恐ろしさ、残酷さは一度体験したら一生忘れることが出来なかったでしょう。パンが無いことは心にも体にも深刻なダメージを残しました。飢饉に対して人々は差し迫った恐怖感をいつも持っていました。飢餓は天候不良だけが原因ではありません。飢饉が起るとお金持ちはありったけの食料を買い上げ、大儲けしました。不平等な制度も飢饉の原因です。イエス様の祈りはこのように元来、食べ物のための必死の祈りです。生存を求める祈りです。社会の不平等が終わる公正さを求める祈り、飢餓撲滅、貧困撲滅の祈りでした。

もう一つの側面をみましょう。余裕があり飢饉とはほとんど無縁の生活をしている人たち(私たち)はこの祈りを、日々私を支える聖書の言葉、霊的な支えが与えられるための祈りと解釈しました。私たちはこの2つの側面を知り、この2つを両方とも大事にしながら祈りたいと思います。そして特に私たちが特に忘れてしまっている貧困撲滅の祈りの側面を見直すきっかけは「我らの」という言葉だと思います。

「我らの」とは「私の」ではなく「私たちの」という意味です。この祈りはみんなの食べ物が与えられる様にという共同体の祈りです。それは私が(私だけが)食べればよいという祈りではありません。私の周りでどんな人が食べられないかを考えさせられます。私の身の周りには最近食事があまり食べられなくなってきているという高齢者がいます。私だけではなくておじいいちゃん、おばあちゃんがしっかりご飯を食べることができますように、この祈りはそのような祈りです。夏休み期間中に体重が減ってしまうこどもがいます。こどもたちが夏休み、しっかり栄養とバランスの良い食事を食べることができるように祈りたいと思います。もっと世界に目を向け「我ら」を私たちの世界とまで広げることができます。戦争は世界の飢餓の原因のひとつです。みんなに食べ物がゆきわたりますようにというのは、戦争が終わりますように、平和がありますようにという祈りとつながっています。

今日は主の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」を見て来ました。私たちはこの祈りをどのように新しく祈ることができるでしょうか。これは我らの、みんなの祈りです。食べ物の祈りです。貧困撲滅の祈り、飢餓撲滅の祈り、平和の祈りです。みんなが満たされるように祈る祈りです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は食べ物と平和が世界にゆきわたりますようにという祈りです。この祈りがもっと世界に広がるように祈ります。私たち一人一人の中にもこの祈りが広がってゆくことを祈ります。私たちはこの祈りで結び付けられ、それぞれの場所で具体的に働けるように力が与えられるはずです。主の祈りをもう一度一緒に祈りましょう。