「救い出したまえ」マタイ6章9~13節

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。 マタイ6章13節

 

主の祈りを宣教のテーマとしています。今日が最後です。主の祈りの中にある豊かなイメージをもう一度確認してきました。

キリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。この祈りを祈っている人は皆、まだ救われていない人、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。

聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれた戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。

キリスト教を信じていても試練や誘惑が起きます。ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。私たちは孤立無援ではないのです。神様が共にいます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。

クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。

私たちが救われたいのは何からでしょうか?今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい病気の中から・・・私たちは救いを求めています。そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。

「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りです。

6回にわたって主の祈りを見てきました。私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持っていることを知りました。信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。大事なのはこの主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。最後に一緒にこの主の祈りを祈りましょう。