「食事に招かれた人」ルカ14章15~26節

今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をします。今日は主の晩餐について考えます。主の晩餐とはイエス様のことを思い出すために行われる、小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会ではこれに参加できるのはクリスチャンのみとしています。ただしバプテスト連盟の調査によれば諸教会の主の晩餐の持ち方は多様で、以下の通りです(数字は教会数と構成比)。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを考え、知り、紹介できるようにしておく事です。

 

  • 当該教会のメンバーのみ        1教会 0.3%
  • 他のバプテスト教会の信徒を含める 3教会 1%
  • 教会・教派を問わずバプテスマを受けたクリスチャンを含める 169教会 62%
  • イエスを信じバプテスマの決心をした人を含める 27教会 10%
  • バプテスマの予定を問わずその場でイエスを信じている人を含む 58教会 21%
  • すべての会衆で行う 16教会 6%

 

今日はルカによる福音書14章15節~24節です。一緒に食事をしていた人が言いました「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。たとえ話で主人は次々に友人から宴会の出席を断られます。主人はとても傷ついたはずです。落ち込んだ主人は、自分と同じように悲しい思いをしている人に食べてもらおうと考えます。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてまだ席が空いていました。主人は誰でもいいと言いました。

このたとえ話でイエス様はこれが神の国だと伝えました。神の愛はだれにでも無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、招きとは、席はすでにそこにあり、誰でもいいからこの席・この愛に加わって欲しいという招き、それが神様の愛です。

主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。でもこのような結果になりました。主人は次の食事会をどのように持ったでしょうか?

私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。イエス様を思い起こす主の晩餐に、正解か不正解かはありません。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。