「神のゆるやかな一致」ガラテヤ書2章11~14節

なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。   ガラテヤ2章12節

 

今日はガラテヤ書から当時の食事の問題について考えます。当時キリストを信じる人は大きく「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」がいました。アンティオキア教会では「ユダヤ人キリスト者」も「異邦人キリスト者」も、みんなで一緒に礼拝し食事をしました。このことは当時大変珍しいことでした。ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしないという人がいたからです。

食事の規定の中には、豚肉を食べないなどの規定もありました。どうやって一緒に食事をしたのでしょうか。ユダヤ人キリスト者が食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。おそらくお皿や食べ物が分かれていました。一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたのでしょう。このように一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされました。それはこの教会の特徴であり、この教会の宣教でした。神様はこのようにして、ゆるやかな一致を起こされました。

当初はペテロも一緒に食事をしていました。しかしエルサレムから厳格派が来て注意されると、ペテロは徐々に態度を変え異邦人キリスト者との食事を避けるようになりました。これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。異邦人キリスト者は、自分たちを受け入れないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。

どちらが良い悪いではなく、2000年前から、誰と一緒に食事をするのかということ多様な考え方がありました。ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということと、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって理解が違ったのです。

さて、この個所からどのような生き方を考えるでしょうか。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教だからです。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。神様は私たちをそのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。

私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちは誰かに無理に同一、同質、“同化”を押し付けなくてよいでしょう。誰かに私たちが無理に一致する必要もないでしょう。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。