「キリストへの信仰」ガラテヤ2章16節

 

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

2018年に約40年ぶりに新しい聖書翻訳「協会共同訳」が出版されました。これまでの研究成果が凝縮された翻訳です。16節は「キリストへの信仰」から「キリストの真実」という翻訳に変更されました。このことを見てゆきます。

これまで16節「キリストへの信仰(信頼)」だったものは「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「へ」が一文字抜けました。文法上はどちらにも翻訳可能です。キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。この考え方は私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。信仰義認とも共通する考えです。

一方、近年は「キリストの信仰(真実)」という翻訳を支持する人も増えてきています。これは大きな解釈変更です。「キリストの信仰」だとするなら、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。パウロが本当に語ろうとしたのは何かという全体の理解の変更にもつながる議論です。

私自身はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私は迷っています。おそらくパウロはここで、私たちは律法によって一つになっているのではなく、信仰・神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしています。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼する事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はやはり「キリストへの信仰」と訳されるべきだと思います。

行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。私はそのような理由で今日の時点では「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。

私たちはそれぞれ違う人生、違う考えを持ちますが、キリストを信頼することにおいては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこと、生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。

私たちはどう生きるのか、お互いに何を信じ、どう生きているのかを聞きながら、歩んでゆきましょう。ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。