「マウントよりも愛」ガラテヤ6章11~18節

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。              ガラテヤ6章14節

 

礼拝の中で5回、ガラテヤ書を読んできました。ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争がはじまりました。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。

パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人と、他の宗教から来て割礼を受けていない異邦人です。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会で大きな問題になっていました。

この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族の誇りだったのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。

マウントを取るという言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。その拒絶の結果が十字架です。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロは見捨てられ、拒絶された、愛するという価値観を誇りにしています。

16節の原理という言葉には基準という意味があります。世界の基準は豊かさや強さです。それを争って決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。私たちの基準は十字架です。愛するという生き方です。

私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと、私たちは今日も集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。