「主のご来光」マタイ4章12~17節

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

マタイによる福音書4章16節

 

あけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。地平線の向こうから昇るご来光は、きっとスピリチュアルな体験です。日の出を見ることは、キリスト教の信仰と重なる部分もあります。今日の聖書の個所にはイエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすと書かれています。

16節の「光が射す」という言葉は「光が昇る」という日の出を表す言葉です。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。イエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方なのです。

暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまう、隅に追いやられている人のことです。イエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられることです。その光は社会の隅々に届き、取り残される人はいなくなります。イエス様はそのような世界の訪れを私たちに告げています。

光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちには暗い一面があります。しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。

もう一つ注意を引くのは13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。ここは権威のある人として、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。これも私たちの世界や個人の心としてもとらえることができるでしょう。イエス様は世界の、私たちの心の真ん中に座してくださるお方です。

もう一か所、私が気になったのは17節です。「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形で「し終わった」という意味です。それはもうすでに来ているという意味です。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。

今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつ目は神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は、神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。

今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。今年1年の主の導きを信じます。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。