「同性愛は罪ではない」創世記19章1~15節

あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。創世記19章12節

 

今月はセクシャルマイノリティー(性的少数者)をテーマに宣教をします。セクシャルマイノリティー(性的少数者)とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。3年前にも同じテーマで宣教をしました。YouTubeには批判のコメントが多くありました。きっと当事者の方たちはずっとこのような批判の中で、生きてきたのだということを思い知りました。このテーマは触れない方が無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、そこに目を注ぎたいと思っています。またあくまでこれは私の聖書の理解です。この教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。

今日は創世記19章1~11節です。神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人は旅人をもてなそうとします。しかしソドムの町の男たちが戸口に現れ、男性である旅人に性的暴力を加えようとします。ロトは自分の娘を差し出すという最悪の方法で対処します。二人の神の遣いはロトたちに逃げるように言いました。実はこの神の遣いこの罪深いソドムの町を滅ぼすために来ていたのです。

キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多く性的少数者はもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。

しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。

このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。聖書はここでも弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。

私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。