みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。今月1月はイエス様が生まれた後の生涯を見てゆきます。
牧師をしているとキリスト教に関する様々な質問を受けることがあります。先日は「悪魔は本当に存在するのですか?」と聞かれました。この質問は何度か受けたことがあります。ある時はオカルトに興味がある人から、またある時は幻覚が見えてしまう病を持つ人から、またある時は自分の犯した罪や行動に悩む人からの質問でした。皆さんは「悪魔は存在するのか?」という質問をされたら、どのように答えるでしょうか?私は短く「悪魔は存在しません」と答える様にしています。しかし聖書には確かに悪魔が登場します。今日読んだ4章1節にもはっきりと登場します。聖書の悪魔は人格、自分の考えを持っていて、自由に飛び回ることができます。そして人間を誘惑します。人々に取り憑いて、人の体を操って、悪い事をさせます。それが悪魔という存在です。聖書にははっきりと悪魔が存在している様に書かれています。
しかし本当にこのような独立した人格のような悪魔は存在するのでしょうか?私個人は悪魔というモチーフを使った比喩であると理解をしています。愛や慈しみとは正反対の考えをしたり、行動をとることを、悪魔と象徴的に表現をしたのだと考えています。悪魔という実体、そのものが存在したのではありません。非人間的な行動、人の尊厳と愛を踏みにじることをした人が象徴的に悪魔と呼ばれたのです。あるいは人々の中にあるそのような悪、それが塊となったような現象全体を悪魔と象徴的に呼んだのです。
一方、悪魔そのものは存在しなくても、今も当時も悪魔的、悪の塊のようなことは数多く存在します。食べ物を捨てる人と食べることができない人がいるという不平等はもはや悪魔的な状況です。人を殺し合うという戦争は、人間が悪魔的存在にならないとできないことです。悪魔が乗り移って戦争をするのではありません。人間が人間の決断として悪夢のような戦争を起こすのです。気候変動も人間の悪魔的な行動の結果と言えるでしょう。例えば、化石燃料を多く使う先進国の利益優先の政策が、貧しい国々を洪水や干ばつといった苦しみに追い込んでいます。先進国のCO2排出が悪魔のように、人々を苦しめています。これらを見て思うのは、悪魔そのものよりも、悪を省みない人間の方が恐ろしいということです。
悪魔が人間を乗っ取り、そそのかして悪い事をしているのではありません。人間が罪人であり、人間が悪魔の様な行動を起こすのです。人間の罪が、人を悪魔の様にしてゆくのです。だから特定の誰かが悪魔なわけではありません。人間一人一人が少しずつ罪を犯し、それが大きな方向に動き出すとき、戦争や、不平等や、気候変動、悪魔の所業のようなことが起こるのです。戦争は悪魔が見ても驚くほどの邪悪さです。戦争をしている人間を見れば、悪・罪がその内側にあることが分かるでしょう。人間の罪が集まり、大きな悪となるとき、それは悪魔のように見えます。しかしそれは外から来るのではなく、私たち自身の内側から生じるのです。
そのような罪深い私たちには神様の言葉が必要です。悪へと傾きそうになるのを、押しとどめる、愛と慈しみの言葉が必要です。私たちの中にある悪を打ち砕く、神の言葉が必要なのです。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。
マタイ4章1~11節までをお読みいただきました。イエス様はその活動を始めて間もなく、荒野に旅立ちました。そしてそこで40日間の断食をしました。何も食事を食べなかったのです。すると誘惑するのもの、悪魔が来て、イエス様にこう言ったとあります「石をパンに変えてみろ」。この言葉、この誘惑はどのような意味を持つでしょうか?この質問で悪魔はイエス様に何か悪い事を言っているでしょうか?「石をパンに変えてみろ」のどこが、悪いのでしょうか。どこか悪魔なのでしょうか?ここに潜む悪は何でしょうか?
この中に潜む悪は、奇跡による即席の解決を期待するという悪でしょう。イエス様は断食を終えてパンが欲しかったはずです。悪魔はそれに対して、奇跡を起こして、魔法の様に解決すればいいと言ったのです。あなたの奇跡を使えば何でもすぐに、パッと解決できるはずと言ったのです。しかしイエス様はそれを断りました。自分一人のパンを食べればよいだけなら、目の前の石をパンに変えれば済んだでしょう。しかしパンを必要としたのはイエス様だけではありませんでした。もっと深い問題があったのです。当時、他にも多くの人が食べることができずにいました。飢えと飢饉が蔓延していたのです。それは悪魔の仕業ではありませんでした。金持ちが穀物を独占し、貧しい人々が食べることが出来なかったからです。それは人間の仕業です。王たちは戦争ばかりして、農地は荒れ果てていました。だから飢えている人がいたのです。
その問題の解決には奇跡は必要ありません。いえ、これは奇跡で解決をしてはいけない問題です。人びとにパンが行き渡るような、平等な社会、分かち合う社会、平和な社会が有れば飢えは無くなりました。奇跡より必要とされたのは社会の変革でした。しかし悪魔は、悪魔的な存在は言いました。「そんなもの、石をパンに変えればすぐに解決さ」と。奇跡では何も解決をしないのです。ここで必要とされているのは、石を変えることではありません。私たち人間を変えることです。人間が変わること、本当はそれが必要とされているにも関わらず、悪魔は「石の方が変わればいい」と言うのです。
悪魔的な存在はいつも私たちを、問題の本質から、罪から、目をそらせようとします。ただ目の前のパンを増やせばいいという考えは恐ろしい考えです。出来事に向き合わず、すぐに表面的なとりつくろいをしようとする人間の罪がここに現れているのです。
イエス様はそれに対して何というでしょうか。イエス様は4節「人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と言います。イエス様は石をパンに変えるのではなく、み言葉によって人間を変えること、そのことによって問題を解決しようとするのです。
6節も同様です。悪魔の生き方は奇跡だけを期待する生き方です。投げやりな生き方です。人間が変わることをしようとせず、神がどうにかするだろうと期待する、運まかせの生き方です。イエス様はそこで言います。7節「主を試してはならない」。神様が都合の悪いことのすべて解決をしてくれる、そう簡単に思うなということです。イエス様は、神様にただ運を任せるのではいけないのだと言っています。
9節にも誘惑があります。その誘惑は与えられた力を人々のために使うのではなく、私利私欲のために使うという誘惑です。私たちの中全員にその悪はあるでしょう。自分の思い通りにしたい。身内をひいきしたい。自分の思い通りに相手に動いて欲しい。自分のものにしたい。そのような悪が私たちの中にあります。それが少しずつ集まって、塊になると、大きな分断と対立、争いが起きます。そのような悪、誘惑にひれ伏す人、指導者は沢山います。
イエス様はそのような誘惑をきっぱりと否定しました。10節、私たちは「共に神に仕える者」だと言うのです。それは、私たちは神様の前に平等に立ち、神様を一緒に礼拝するという意味です。私たちは平等で、共に礼拝する仲間です。私たちには上下は無く、誰かが独占せず、分かち合うのです。私たちは互いを尊重し合うのです。イエス様の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という答えは、人間は神様の前で、互いに平等で、尊重し合う存在だという答えだったのです。
ここまで見て来たとおり、悪魔の提示する解決方法はどれも、即席の解決方法です。悪魔とはつまり即席の神学とでも言えるでしょう。なんでもすぐに、表面的に解決をしようとし、悪に蓋をし、人間に変化を求めない姿勢、それが悪魔の考え、即席の神学です。しかしイエス様はことごとく、この即席の神学を否定します。イエス様は、即席の解決よりも、神の言葉が大事だと言います。毎日毎日、食事を食べる様に、少しずつ神様の愛の言葉を聞いて生きる事が重要だというのです。
そのように私たちは神様の言葉によって、私たちは少しずつ変えられ、共に生きるようになります。このプロセスは時間がかかりますが、イエス様が示されたのは、このような人間の変革による解決です。それは悪魔の提示する解決方法よりも、ずっと時間がかかるでしょう。でもイエス様は神様の言葉によって変えられた人間が、新しい生き方をするという解決方法を求めたのです。共に神に祈り、平等で互いを神に仕える者として尊重する関係を求めたのです。そして、その前にもはや悪、悪魔は立つことが出来ませんでした。離れ去って行ったのです。
もう一度質問の答えを繰り返します。悪魔そのものはいません。物事を悪魔のせいにしてはいけません。そのような即席で簡単な見方、解決方法こそ、悪魔的な発想です。私たちも時に、問題を奇跡や即席の解決に任せたいと思うことはないでしょうか?現実に向き合うことは大変で、逃げたくなる時もあるでしょう。しかし、神様はそのような私たちを変えるために、愛の言葉を与えてくださるのです。
私たちに求められているのは、神様の言葉を聞くこと、そして変わることです。神様の言葉を聞いて、目の前の出来事と向き合うことです。解決に向けて働くことです。神様が私たちに求めているのは、奇跡を待つことではありません。神様は私たちがみ言葉を聞き、その生き方を変える事を願っているのです。神様はその言葉によって、私たちを変えて下さるお方なのです。私たちはその言葉を聞き、共に歩みましょう。お祈りします。
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