【全文】「バプテストのヨハネ」 マタイによる福音書3章1節~12節

エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書3章5~6節

 

みなさん、おはようございます。先週はお休みをいただきまして、ありがとうございました。コロナで延期になっていた冬休みをようやくいただくことができました。感謝です。こどもたちも集まってくれました。私たちはこどもたちを大切にする教会です。声を聞きながら、今日も一緒に集えることを喜びながら礼拝しましょう。

来週はこの教会の71回目の創立記念日でもあります。今回と次回、引き続き「教会」というテーマで宣教をしてゆきたいと思っています。改めてですけれども、私たちはキリスト教の教会です。その中でもバプテスト主義を大切にする教会です。

バプテストとは、バプテスマという全身を水に沈める洗礼の方法をとることから、バプテストと呼ばれます。入信の儀式において、後ろに大きな浴槽に水をためて、その中に全身を沈めるのがバプテスマです。その日からクリスチャンとしての信仰生活がスタートします。他の教派では滴礼という水を少し頭に垂らす方法が一般的ですが私たちはわざわざ全身でそれを受けます。

バプテストがこの洗礼の方法にこだわったのは、当時は幼児洗礼といって、生まれてすぐに自動的に滴礼による洗礼を受けさせられたという背景があったからです。バプテストを始めた人々は、バプテスマは生まれてすぐ、無自覚に与えられるものではなく、本人の意思に基づいて行われるべきものだと考えました。信じた者、信仰を告白したものだけがバプテスマを受けるのだと考えました。信仰をもっと自覚的にとらえようとした人々がよりよい洗礼の方式を考え、この方式をとりました。

このようにバプテストは個人の自覚的な信仰を大切にするグループです。ですからバプテスマを受けるみんなの前で信仰の告白を聞きます。それをみんなで確認しあうのです。誰かにこれこれを信じなさいといわれるのではなく、自分の言葉で信仰を表現します。ですから、それぞれ何を信じるかは自由なのがバプテストです。

そして教会のことも、誰かが決めるのではありません。自分たちで自覚的に決める。教会全員が話し合って決めることを大切にします。

このようにバプテスト教会の特徴は洗礼の形式にとどまらず、その中身、自由と平等、民主主義を大事にするということが特徴です。私はよくキング牧師を引き合いに出して説明をします。彼もバプテストです。アメリカの公民権運動を主導しました。彼は黒人差別に反対し、特に選挙権を得るために平和的なデモ行進でそれを訴えました。教会が自由と平等と民主主義を社会に訴えたバプテストらしい活動だったと思います。

私たちはキリスト教のバプテスト教会です。この教会は自由と平等と民主主義を大切にする教会です。教会員全員、あるいは今日初めてきた人もみんな平等に尊重される教会です。教会の中に上下ありません。自分たちの教会の事は本部が決めるのではなく、自分たちで決めます。教会の全員が一人一票を持ち、民主主義的に運営されています。

このことは実は当たり前のようで当たり前ではありません。これは他の教派から見ると、やや異端です。例えば他の教派は自分たちの牧師を自分たちが決めるわけではありません。上の人が決めます。牧師は信徒名簿に載らないと聞きます。牧師は牧師で信徒ではないからです。私たちの教会は様々な面で、平等、自由、民主主義を大切にしています。

さて、今日の聖書箇所は、バプテスマのヨハネと呼ばれる箇所です。バプテストの事と、バプテスマのヨハネとどんな関係があるのかと疑問に思うかもしれません。確かに歴史的にバプテストは17世紀にイギリスで発祥し、アメリカを経由して日本に伝わってきました。直接にバプテスマのヨハネとバプテストがつながっているわけではありません。

しかし、私はバプテスマのヨハネとバプテストにはたくさんの共通点があると思います。まず洗礼方式が今の私たちと似た形式です。このバプテスマのヨハネの洗礼も私たちのルーツとも言ってよいと思います。そして私たちが大事にしている平等ということも、彼は大切にしているのではないかと私は思います。バプテスマと平等を大事にしているという意味で、彼もバプテストだったのではないかと私は思います。今日はヨハネが大事にしたバプテスマと平等さということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日はバプテスマのヨハネをバプテストのヨハネと呼びます。実はヨハネ以前からバプテスマは行われていました。しかしそれは、沐浴に近いようなものでした。何回でも受けてよいもので、自分で水に潜るものというものでした。

この沐浴のようなバプテスマをするのは例えば、ユダヤ人が律法に違反し穢れてしまった時です。穢れを取り払うために自分で水に潜りました。そしてまた穢れたときは繰り返し水に沈んだのです。あるいは穢れているとされた外国人は、ユダヤ教に入信するときにこれを行いました。

しかしこのヨハネのバプテスマは、これまでとは全く違う特徴を持ったバプテスマでした。まず彼の洗礼は自分で自分にするものではありませんでした。誰かにしてもらう必要があったのです。

ですからバプテスマのヨハネは初めて洗礼を他人に対して行った人になります。初めてのバプテストといえます。そしてこのバプテスマは1回限りのものでした。何度でもできるのではなく、この1回を人生の転換点とするように迫るものでした。

そしてその人生を転換するという内容は、穢れを払うということだけではなく6節にあるように罪の告白を伴うものでした。言い換えるならば信仰の告白が伴ったと言えるでしょう。ただ穢れを取る儀式ではなく、罪を自覚し、告白し、決定的な1度きりの再スタートを切るということを意味したのです。その点で言えば、私たちのバプテスマとの共通点は多くあります。

このバプテストのヨハネのバプテスマ。ここには平等というテーマが含まれていると思います。なぜならそれは、穢れた者や外国人だけが受けるのではなく、全員が受けるべきものとされたからです。祭司もラビもファリサイ派も律法学者も全員がそれを受けるべきだとバプテストのヨハネは主張したのです。だからこそその列には7節ファリサイ派やサドカイ派、特にサドカイ派はエルサレムの都会のエリート祭司です。エリートから一般庶民まで、いろいろな人々が等しく、バプテスマを受けるようにと迫られ、ヨルダン川に来ていたのです。

そしてバプテストのヨハネは特に宗教的なエリートに向けて、厳しく語っています。自分たちを誇らないようにと厳しく伝えています。ヨハネは彼らにこう言います。お前たちは何か特別な存在なのではなく、神様の前では、全員同じ石ころ、同じように実を結ばない木だというのです。

バプテストのヨハネはこのように、エリート祭司も律法学者も躊躇なく、みんな平等に批判しました。結局彼は王様も躊躇なく批判したので、殺されてしまいました。彼が7節以降で主張しているのは、神の前に全員が等しく罪人であるということです。神様の前に罪人であるということにおいて、平等だと主張しています。自分だけが特別、誰かが特別という考えは間違っている、全員が神様の前に平等に罪人であると主張します。

そしてだからこそ全員が、その罪の告白と信仰の告白、そしてバプテスマが必要だというのです。これを見ると、バプテストのヨハネも現代のバプテストと同じく、平等を訴える者だったと思います。

彼はみんな同じ罪人だといいます。そう、私たちは平等です。神様の前に平等です。神様の前に等しく大切な命であり、そして等しく罪を犯す者です。完全に神に従うことができる者はいません。多かれ少なかれ神に従うことができない者なのです。その意味で神様の下に私たちは平等です。バプテストのヨハネはその私たちの平等さを訴えたのではないでしょうか。全員平等に罪人、だから全員神様に立ち返れ、このバプテスマを受けて決定的な再スタートしないさいと主張したのがバプテストのヨハネだったのではないでしょうか。

バプテストのヨハネについてみてきました。このバプテスマは自覚して受けるものでした。自ら罪人であると信仰を告白してから受けるものでした。罪と信仰の告白なしでは受けることはできないものでした。それはすべての人に求められました。すべての人が神の前に罪人であること、平等であるからこそ、全員に求められたのです。

私たち現代のバプテストもそのように考えます。私たちは誰かに勝手にバプテスマを受けさせられるのではありません。自分で自分にするのでもありません。自身の信仰に基づいてバプテスマを受けます。そこには罪の告白、信仰の告白が伴います。そしてすべての人が罪人で、神様の前に平等であるからこそ、全員がそれを受けるように促されます。そこから決定的な生き方の転換が始まるのです。

すでにバプテスマを受けた方々はその意味をすべて理解してバプテスマを受けたのではないでしょう。意味をよく理解せずに受けたのでしょう。私もそうです。すべてを理解してから受けるのでは、いつまでたってもそれは受けることができません。

でもそれを受けた人はすでに新しい生き方をスタートしている方です。生き方の転換がすでにそこからはじまっています。もう一度それぞれに自分の信仰を確認しましょう。平等ということ、命の等しさということ、もう一度覚えて、今週1週間を歩みましょう。

これからバプテスマを受けたいと思っている方もいるでしょうか。ぜひ私にお知らせください。新しい生き方のスタートを一緒に切りたいと願っています。すべてを理解する必要はありません。ふさわしくなったらバプテスマを受けるのでもありません。今のあなたからスタートしてほしいのです。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。みなさんもこの祝福にあずかることに招かれています。お祈りをします。