【全文】「地の塩、世の光、立派な行い」マタイによる福音書5章13節~16節

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章16節

 

みなさんおはようございます。今日は71回目の創立記念日を迎えています。この教会は1950年からこの地で少しずつ変化をしながら礼拝を続けてきました。今日この日を迎えられること、先輩方がこの教会を大切に守って下ったこと、そして何より神様がこの教会を守り導いてくださったこと感謝します。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声が聞こえる礼拝をしています。このこどもたちとも、礼拝を一緒に持ちたいと願っています。一緒に礼拝してゆきましょう。

今日の聖書箇所は地の塩、世の光という言葉で皆さんに親しまれてきた箇所です。教会やクリスチャンのあり方を表す言葉として親しまれてきました。

教会は71年間「地の塩」だったと言えるでしょう。教会は他の様々な集まりとは違う集まりです。その特徴は神様を中心とした集いということです。それは様々な集いに似ているようで全く違うものです。

愛とか、平和とか、いたわりとか、世界ではもう使い古され、忘れられてしまったようなことを大切にし続けています。教会は社会の不公平や、正義、命に関わりつづけています。そのように神様を中心にし続けています。

それは塩のような存在と言えるでしょう。社会と同じようになるのではなく、社会の基準とは距離をとってきました。そしてそれを言葉にし続けてきたのです。クリスチャン一人一人も塩です。世界とはすこし異なる生き方をする人です。

塩気を失うとは、教会が神様を中心しないということです。神様を中心にしなくなったら、塩が塩で亡くなるように、教会は教会ではなくなってしまいます。教会がその存在の意味を持ち続けてきたのは、神様を中心にし続けてきたからです。私たちが神様を中心にしないとき、あるいは別の何かを中心しようとするとき私たちは塩でなくなってしまいます。

そして教会は71年間、世の光でもありました。暗い社会の中で教会はいつも希望を示し続けてきました。この教会の十字架は通りの向こうからも見えます。存在感のある教会です。

世の光とは、世の中、世界に対して隠されないで、輝くことです。この光はクリスチャンのためだけ、ここに集まった人のためだけの光ではありません。「世の」光です。教会は世界の光です。教会は戸を閉ざし、隠れるのではありません。扉を開けて、疲れた人、社会で希望を持てなくなった人を招き入れ、励ましてきました。閉ざされた仲間のためではなく「世のための」光、教会なのです。

そしてクリスチャン一人一人もそうです。私たち一人ひとりは毎週それぞれの場所から集まり、それぞれの場所にまた派遣されています。光の子として世に、派遣され続けています。それぞれの場所で、光として周囲に希望を与える存在として派遣されてゆきます。教会はこのように71年間、地の塩、世の光でした。

そしてもう一歩踏み込んで考えてゆきたいのです。私たちは教会とは地の塩、世の光だと思っています。しかし、周囲からはどのようにみられているのでしょうか。教会の存在そのものが異質だし、目立ってはいます。

しかしその内側についてはほとんど知られていないと言えるでしょう。自分たちが自分たちを地の塩、世の光だと思うように、周囲から教会は世に光と思われているのでしょうか。もしかすると、私たちが世の光であると思うほど、地域の方々は意識していないかもしれません、教会が世の光だとは感じていないかもしれません。

私たちのことを地の塩、世の光と感じるのは、地域との交流があってこそのことでしょう。地域と様々な交流と通じて、この教会ことを「塩」と感じたり、「光」と感じたりするのでしょう。

例えばサロン虹という活動があります。高齢者の方々が集まって聖書の話を聞いて、おしゃべりをしています。他とは違う神様を中心としながら、ここで安心したり、満たされたりするときにこそ、ここを地の塩、世の光と感じてもらえるのだと思います。もし地域との関わりがなかったら、どんなに私たちが自分たちを地の塩、世の光と思っていても、誰からも地の塩、世の光とは思われないでしょう。

この教会は素晴らしいところだと思います。そして、ただ自分たちの教会の存在をほめたたえるのではなく、しっかりと71年の振り返りもしたいのです。私たちには塩のように独自性のある集まりです。私たちは光のように閉ざされないオープンな集まりです。そしてもう一つ上げるなら、私たちは地域との交流によって活動によって、地の塩、世の光となることができるのです。

今日の聖書箇所、私は3つのことを言っていると感じます。地の塩、世の光この2つに加えて、立派な行いということ。この3つが大事だと聖書は語っています。地の塩であり続けること、世の光であり続けること、そして行い・活動をもってそれを世の、世界の、地域のものとしてゆくこと、それが大事なのではないでしょうか。地の塩、世の光、立派な行いの3つを今日は聖書から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様の時代、イスラエルの荒野にクムランという場所がありました。その荒野で信仰生活を守る人々がいました。ここは死海の近くです。死海とは塩分濃度が高くてなんでも浮いてしまう湖です。彼らはまさしく塩の湖の近くに、地の塩として暮らしていました。

クムランの人々は洞窟にこもって生活をしました。社会と分離し、まったく違う価値基準で、自らに厳しい生活をしていました。そのようにして自分たちの独自性を守ろうとしたのです。彼らは他の集まりとはまったく違う、まさしく塩の近くに住む、地の塩の人々だったのです。

そしてクムランの人々は、自分たちを光の子と呼びました。そして一般社会の人々を闇の子と呼びました。しかし、彼らは本当に光だったのでしょうか。もし彼らが光だったとしても、おそらく洞窟で暮らした人々の光は人々には届かなかったでしょう。彼らは確かに地の塩でしたが、世の光ではありませんでした。

イエス様はおそらくこのクムランの人々の生活が「塩」であることは認めたのでしょう。社会での独自性を評価しつつ彼らを「地の塩」だと考えました。しかしもう一方で、クムランの洞窟に住む彼らは世の光ではないと批判しました。

15節にある、灯火を桝の下に光を置くとはそのようなことです。たとえ光であったとしても、それに覆いをかけて、箱をかぶせて、隠していては、光の意味はありません。山の上の町ではなく洞窟の中にあるのでは、光は光ではありません。

イエス様はクムランの人々のように社会から独自性を持った地の塩のようになりなさいということと同時に、隠れず世に出てゆき「世の光」となりなさいと語ったのです。

よく聖書からは、「地の塩、世の光」とセットで引用されます。しかし私はここで伝えられていることは3つあると思います。それは地の塩、世の光、そして「立派な行い」ということです。聖書はこの3つ「地の塩、世の光、立派な行い」を大切にするように言っているのではないでしょうか。

私たちは地の塩であるだけではなく、世の光です。世の光として私たちは世と関わることが求められています。そしてそこでは、16節「立派な行い」をするように勧められているのです。

立派な行いとは、善い行いとも言えるでしょう。地域、世界の中に必要とされることを行うことです。教会や私たちが困っている人、寂しさを感じているに寄り添い、共に歩むことが立派な行いです。病気や寂しさから元気をなくしている人と共に過ごし、共に歩むことそれが立派な行いです。他にも様々な立派な行いがあるでしょう。

今日の箇所からすれば、教会はそれを教会の中だけではなく、外に向かって、世に向かって行ってゆくことが促されています。他とは違う神様の希望を言い表し、希望のための行い・活動をしてゆきなさいというのが、イエス様の促しです。私たちは自分たちを塩、光と呼ぶだけではなく、それを具体的に現す者として歩むように促されています。

聖書は私たちに「地の塩になりなさい」「世の光となりなさい」「立派な行いをしなさい」と語っているのではないでしょうか。

私たちは塩であるだけではなく、世の光になりたいのです。そしてそれを行い、具体的な活動で表す集まりになりたいのです。教会は確かに他とは違う集まりです。教会は希望の集まりです。そして教会は立派な行いの集まりなのです。

私たちが立派な行いをするからこそ、世の塩であり、世の光となるのです。人々の幸いのために語り、行動を起こしてゆくのが、教会なのではないでしょうか。そしてそれはこの教会が大事にしてきた地域活動という行いで、表されているのではないでしょうか。

ひとりひとりの生活も振り返りましょう。それぞれが地の塩となりましょう。世の光となりましょう。立派な行いを大事にしましょう。それぞれが社会に流されず、社会から隠れず、具体的に働いてゆきたいのです。

創立71周年を祝います。私たちは塩として歩みましょう。多くの人と違う基準、神の言葉を中心とする集いであり続けましょう。そして閉じこもるのではなく、世へと出て行く「世の光」となりましょう。そして神様に従う人が多く起こされるように、私たちは働いてゆきましょう。教会は、私たち一人一人は「地の塩」「世の光」を目指し、「立派な行い」をしてゆきましょう。それが神様が私たちに示していることではないでしょうか。お祈りします。