【全文】「平和を祈ろう」マタイによる福音書8章5節~13節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタイによる福音書8章10節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちを感じ、声を聞きながら、平和を覚えるという大事さもあるでしょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは6月中旬から平和をテーマに5回の礼拝を持ちました。沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマー、それぞれと平和について考えてきました。聖書が暴力ではなく、非暴力、愛の力によって平和を実現するように指し示しているということを見てきました。

戦争反対、暴力反対と唱えていれば平和になるかというと、そんな簡単なことではないとも感じました。戦争の誘惑、暴力の誘惑は私たちのすぐ近くに、私たち一人一人の中にすでにあって、いつでも誰でもその誘惑に落ちいってしまうのです。私たちはいつも自分たちに、自分たちの世界に注意を向けなくてはいけません。いつも平和かどうかに目を向けてゆかなければなりません。そうしない時、すぐに戦争を初めてしまうのが私たち人間なのです。

命を守る、平和ということについて、私たちに何ができるでしょうか。デモに参加しよう、寄付をしよう、署名活動をしよう、いろいろなことができるかもしれませんが、祈ることもとても大事なことではないでしょうか。私たちは自分自身、人間の力だけでは暴力の誘惑を乗り越えることができません。私たちには決定的に外側からの力が必要です。私たちが心の方向を変えて、暴力を止め、平和へと向かってゆくには神様の力が必要なのです。私たちにとって平和を与えて下さるのは神様です。平和を神様に祈ってゆくことは、平和を実現するために何よりも大切なことです。一緒に祈ってゆきましょう。

平和は誰でも願うことです。でも私たちには、平和を実現なさろうとする神様が共におられます。とても心強い神様がおられます。私たちがどんなに平和を忘れても、どんなに平和をあきらめても、神様は忘れない、あきらめないお方です。私たちには、平和の神様がいます。一人一人が精一杯、世界の平和を神様に祈り続けてゆきましょう。

そして祈りといってもいろいろな形があるでしょう。手を組んで目を閉じて祈ることだけが祈るというはないでしょう。歩きながら、電車に乗りながら、平和を祈ることができます。オリンピックを見ながら平和を祈ることができます。

いつも熱心に祈るという以外にも祈る方法はあるでしょう。毎日少しずつ祈る、ピンチの時に集中して深く祈る。そんな風にいろいろな場所やあり方で、平和への祈りを続けてゆきたいのです。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和は特に祈り続ける、ずっと祈り続ける、祈り続ける期間の長さが大事だと思います。祈り続けることは教会が得意なことです。平和を忘れずに祈り続けてゆきましょう。

そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。でも平和の祈りを、私たちの周りだけではなく、世界に広げてゆきたいのです。沖縄の事、世界のこと、歴史の事を、自分のこととして祈ってゆけるかが私たちに問われているのではないでしょうか。

今日も聖書を読みますが、熱心に平和を祈る姿、その姿を見て、この平和というテーマの宣教を終えようと思います。私たちは世界の平和を祈りましょう。それを自分のことのように、熱心に主に祈りたいと思うのです。

私たちはその戦争を直接止めることはできなくても、祈ることで、平和の力がそこに与えられてくるはずです。それを信じて祈りたいのです。今日の聖書にはそのように、他者を愛し、そのために熱心に祈る一人の男が登場する箇所です。この百人隊長の祈り、平和の祈りを一緒に見てゆきましょう。

 

今日の箇所を読みましょう。平和というテーマでどうやってこの個所を読むことができるでしょうか。この個所のどこかに平和の関係があるか、そんなことを考えながら聖書を読みます。

6節には僕が「中風」という病気だったとあります。これは麻痺を伴う病気のことです。さらに「ひどく苦しむ」と書いてあります。これは強烈な苦痛を表す言葉です。例えば出産の痛みを表す時にも使われる言葉です。おそらく僕は立ち上がれないほどの痛みに襲われました。ある人はくも膜下出血の症状に似ていると言います。くも膜下出血はバットで殴られたような痛みだと言います。

似た記事はルカ福音書とヨハネ福音書にあります。「中風でひどく苦しむ」ことは変わりませんが、ヨハネ福音書ではこの人を、百人隊長の「息子」とも表現をします。息子であればこの話の関係性は分かりやすいように思います。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。

一方、ルカ福音書では苦しむのは「部下」だったと書かれています。百人を従えていた隊長がそのうちのたった一人の部下のためにこんなにまでしてくれる、上司と部下を超えた関係、絆を感じます。

マタイ福音書では読んだ通り「僕」とあります。息子でもなく、部下でもなく、奴隷でもない「僕」です。そしてこの言葉は少年を表すことばでもあります。百人隊長とどういう関係、距離感なのかわかりません。家族の一員だったのか、召使いという位置づけなのか、どれほど近い関係なのか、遠い関係なのかは言葉からでは良くわかりません。

しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。おそらくこの僕は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。きっと直接血のつながった家族、血族ではないけれど、雇われて仕えている関係かもしれないけれど、でもこの主人にとっては我が子のように大切な存在だったのです。それがこの二人の関係です。

私は今日の箇所の中で、この苦しむ僕と百人隊長との関係に目がゆきます。この僕のひどい苦しみの前に、百人隊長の助かってほしいという強い願いや、祈り、焦り、混乱が伝わってきます。

百人隊長にとってこの僕はどれほど大切な存在だったのでしょうか。それは恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。ここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。

百人隊長は彼の命のためならどこへでも、何度でも行くつもりだったはずです。そしてイエス様に出会い、祈ったのです。しかもイエス様には1節や10節にありますが、従って来た大勢の群衆がいました。

想像してみてください、大勢の群衆、貧しい群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に懇願するのです。イエス様に祈るのです。多くの人の前で自分の僕の癒しを祈ったのです。そしてさらに群衆が見ている前で、必死に自分はイエス様を家に呼ぶ資格はないかもしれないけど、それでも助けてほしいと祈ったのです。イエス様なら一言で十分なはず、きっと直してくれるはずと信じ、懇願した、祈ったのです。涙ながらに祈ったのです。

よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも、まるで祈りのようです。私にはこれが祈りに聞こえます。「主よ」という神様への呼びかけ、自らの罪の告白、癒しの願い、なんでもするという思いが祈られています。百人隊長はイエス様の前、群衆の前で、恥じらいもせず、僕のために熱心に祈ったのです。

イエス様は10節、それに感心したとあります。何にそんなに感心したのでしょうか。百人隊長の神様への信頼に感心したと読まれることが多い箇所です。たしかに危機の中で百人隊長に与えられた信仰の深さに驚いたでしょう。

しかし私は、イエス様が感心したことが他にもあったはずだと思います。それは彼の祈りです。百人隊長はこの僕の命のために、イエス様にどうか助けてほしい、平安を与えてほしいと必死に祈ったのです。

イエス様はこの「祈り」に感心したはずです。それほどまでに「僕」のために祈ることができるのかと感心したのです。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。

そこにある姿は僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿でした。地位ある人の恥も外聞も捨てた、プライドを捨てた祈りだったのです。イエス様はこの百人隊長の祈りに共感をしたのではないでしょうか。イエス様は、家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。

私はこの物語の中に平和を感じます。百人隊長は平和を祈ったのです、イエス様に熱心に平和を祈り求めたのです。家族のためではなく、一人の僕のために。本来は通りすぎてしまう、忘れてしまうような命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕のために、百人隊長は走り、祈ったのです。

私もこの百人隊長のような祈りをしたいと思わされます。百人隊長は、自分だけ、自分の家族だけの平和を祈ったのではありませんでした。もっと外側にいる「僕」のために熱心祈りました。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたい、この個所を読んでそう思うのです。イエス様が感心したのは、他者の命への熱心な祈り、平和の祈りだったのです。

私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいと、この百人隊長の個所から思います。百人隊長が何かできることはないか、走り回って、そしてイエス様に祈ったように。私たちにできる平和の祈りをささげたいのです。

神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。戦争は遠い国で起こっているかもしれません。しかしそこで起こる苦しみを、自分の苦しみ、家族の苦しみのように、祈りたいのです。もしそのように熱心に祈ることができるならそれは素晴らしい事なのではないでしょうか。

神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。