食と平和

 「和」という漢字は、「禾」と「口」が一つになってできている。このノギヘン「禾」は稲・穂・種などがそうであるように、「米」をあらわしている。つまり平和の和とは、コメに口、食物があって人の平安、和平は守られ、保たれることを意味していると理解できる。経済的に守られて平和も保たれる、これは普遍的な真理かもしれない。

 

 そういえば、外国でも日本でも国際会議などでは、レセプション・会食はつきものである。これは互いに心を一つにして食を共にすることを抜きにして平和や信頼は成り立たないものであることをあらわしているだろう。

 

 だとすると、「平和とは相互に信頼して一緒に食べること」と定義できるだろう。主イエスが「天国とはこのようなものである」と言って、たとえを語られた中に、食卓を共にし、宴を楽しむ様子を描いているのも、究極的平和は共にテーブルを囲むこと、ということを暗示しているだろう。私たちはそれを「主の晩餐式」によって先取りをしている。

 

 かのアウグスチヌス(354―430 神学者)は「汝が平和を分け与えるとき、その手でパンを裂き、パンを分かつことによってパンを増す。平和はそのパンに似ている」と言った。先々週に紹介した韓国の詩人金芝河の詩の一節も同じことをいっている。「飯が天です/天を独りでは支えられぬように/飯はたがいに分かち合って食べるもの……」。

 

 資源の少ない日本が、世界で有数の工業製品をはじめとする生産国となり、農地の少ない国にこんなに食材があふれているのは、全世界の国々のおかげである。であるならば、医療スタッフの派遣、技術援助、難民救済のための出資、留学生の受け入れ、災害復興のための様々な支援などの平和貢献に資する活動、事業をもっともっと増やさなければならないだろう。これらは「武器輸出三原則」を撤廃し、防衛装備移転三原則を閣議決定して、要するに危険な武器を売って儲けることよりも大切なことであろう。死をもたらす武器は高くつき、生を支える愛の道具は安い。これこそ積極的平和主義。

 

 *『福音と笑い これぞ福笑い』(山北宣久著 教文館)129‐130p参照。