戦争のできる国反対

7月1日、安倍内閣が集団的自衛権行使容認の閣議決定を行った。それは平和主義を掲げた日本国憲法に基づく戦後体制の百八十度転換である。これは、歴史的経過からも手続き論からも、また内容的にも容認できない。

 内容から言うならば、自衛隊(私は自衛隊も違憲と考える)はそもそも、日本が自主的に作った存在ではなく、朝鮮戦争で手薄になった日本防衛の穴埋めに、米国の求めに応じて作られてきたことが始まり(今回も米国からの強い要請があったと考えられる。だから米国は「歓迎し支持する」との立場)。だから戦力の不保持を定めた現行憲法で、ぎりぎりの解釈として、専守防衛という枠組みを作ったわけである。その自衛隊が本格的に海外で軍事行動ができるようにするというのは、現行憲法の根幹を潰すこと以外の何物でもない。一方で、海外で軍事行動をするということは国際的に見て「普通の国」のあり方で、今までが特殊だという論客もいる。この人たちとどのように対話していけばいいのか考えねばならない。

 歴史的経過から見るならば、集団的自衛権行使容認は、ポツダム宣言やその延長線上にあるサンフランシスコ講和条約の考え方を否定することである。アジア・太平洋戦争に敗れた結果、連合国はポツダム宣言で日本に民主主義の実現と平和的国家の構築を求めた。こうした考え方を日本は受け入れ、憲法9条で具体化させ、統治機構を存続させた。それは戦争への反省から自らの「不戦の国」への誓いであり、アジア諸国をはじめ国際社会への宣言でもある。

 手続き論からいえば、戦後社会の根幹だった9条の正式な憲法改正の手続きを省き、結論ありきの内輪の与党内の議論ですませ、一内閣で解釈変更を閣議決定するというのは、憲法違反であり、国民不在の独裁政治である。断じて許されない。

 「反対!」と叫ぶだけでなく、異なる意見の者たちと粘り強く対話(議論)しなければならない。しかし、私たちは有効な対話の言葉を持っているだろうか。