祈りは霊的呼吸

主権とイニシアティブ(主導権)はいつも神の側にある。「シェマー(聞け)、イスラエルよ。」(申命記6:4)とある通り、神が語り、人がそれを聞くのである。どこまでも神が主であり、人間は従である。

 この場合、「聞く」よりも「聴く」という漢字を使いたい。「聴」の旧字体は「聽」である。「聽」という漢字は本来「耳と目と心を一つにして、十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味を持つ。

 そのようにして向こう側から響いてくる聖なるお方の御声に耳を澄ませ、無心になって全身全霊を傾けていく。神が語り、人が「聽く」。これこそ聖書が私たちに求める「祈り」の姿勢であろう。

 私たちにとって祈りは「霊的呼吸」でもある。呼吸が止まったら死んでしまうように、祈ることを止めたら私たちは霊的に死んでしまう。神がご自身の「息」をアダムの鼻に吹き込んで生命を与えたように(創世記2:7)、私たちもまた神の息を吸い込んで生きる。神の呼気は人間の吸気、人間の呼気は神の吸気。「インマヌエル(神、我らと共にあり)」の神はかたわらにあって私たちと「呼吸を共にしてくださる神」でもある。

 神は必ずその祈りを聞かれると宗教改革者ルターは信じていた。祈りが神に喜ばれ、必ず聞き入れられることを疑ってはならないが、いつでもそれが祈る通りにかなえられるとは限らない。それがどのように実現するかという「時、場所、分量、目的」などは、神がよいようにしてくださることを信じて、神に任せるべきである。

 最近、祈りに関して「さかなとねこ」が大切であるとある本で読んだ。「讃美、感謝、慰め、執り成し、願い、告白」の最初の語を組み合わせたものだ。自分の日頃の祈りはどうだろう。「さかなとねこ」がちゃんと入っているだろうか。ともあれ、私たちが神に祈ることができるということは、何という恵み、何という喜びであろうか。