平和ってな~に?

平和って、すべての人の願い。平和を願わない人はいないだろう。だが、現実にないのも平和といえるだろう。平和の名のもとに戦いがある現実を見る時、人間の罪深さを思わざるを得ない。

 平和は単なる願い、願望にとどまらず、祈りである。祈りは意志、意志は決断。決断は行動に続く。

 今、国会で安全保障関連法案(別名「戦争法案」)が審議されている。その中で「抑止力」必要論が強調されている。力は力でも軍事力(武力)、破壊力ではなく創造力でなくてはいけないだろう。何を創造するのか。平和である。主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と言われた。

 今年の8月6日に読み上げられる広島平和宣言には、武力に頼らない安全保障の仕組みをつくり出すため、各国の指導者が対話を重ねることが「核兵器廃絶への第一歩」になると訴える、という。でも人間には「軍事力があると平和でいられる。抑止力は必要」という気持ちがある。これは「平和を欲するならば、戦争の備えをせよ」の論理。そうではなく、「戦争を欲しないならば、平和の備えをせよ」でなければならないだろう。

 平和とは共に生きること、生きられること。戦争とは互いに殺し合うこと、共に生きられないこと。あらゆるものを殺し、破壊し、生かさないのが戦争。あらゆるものを生かすこと、とりわけ生命を生かしていくことが平和。

 戦争がない状態を平和な時代といえるが、とても現実は平和とは思えない。平和とは、生命、喜び、調和、健康などが充満した状態を指し、それを聖書ではシャロームと表現している。さらに愛、恵み、平安、祝福が満ち溢れている満足、充足、これがシャローム。

 最後に詩編の御言葉。「主は平和を宣言されます。……慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(85編9-12節)。