祖母の話をしよう

明日は「敬老の日」。そこで私の父方の祖母の話をしよう。私の実家は三世代の大家族で祖母とは大人になるまで一緒に暮らした。祖母の名は「フサノ」。「○○子」でないので、子どもの頃、変な名前と思ったものだ。毛利藩の下級士族の長女として明治31年(1898年)生まれる。当時の祖母の実家は宇部市郊外でわずかばかりの田畑を耕す貧しい生活だった。

  下に次々と弟妹が生まれ、小さい頃から子守など家事を手伝わされた。小学校入学になっても父親は学校に通わせてくれない。役場の人が何度も入学させるよう説得に来たがダメだった。その時、祖母は泣いてお願いしたが聞き入れてくれなかったという。この話、子どもの頃何度も聞かされた。よほど悔しく悲しかったのだろう。近所の子どもたちが登校する姿を見ては隠れて泣いたという。

  よって、祖母は文盲なのである。読み書きそろばんが一切できないで一生を終えた。自分の名前すら書けない読めない。時々、祖母宛のハガキが来るが、「どうも私宛のようだがなんて書いてある」とハガキを私のところに持ってきたりした。選挙の時は、私の父親が手のひらにマジックで書いて、この通りに書くようにと言っていた。果たしてちゃんと書けたかどうか。

  買い物はどうしていたの?と聞いたことがある。そこは生活の知恵、その品物のだいたいの値踏みをして多目にお金を出す。お釣りが返ってきたら買えたということだ、と説明した。バスの行き先が読めないので乗れない。だから市内のたいていのところは歩いて行っていた。

  苦労話は山ほど聞いたが、今日はここまで。教えられたこと。基礎学力がないと世界は広がらない、知的成長に限界がある。人生の可能性が著しく狭められ、楽しみが限られる。今でいう自立した人生と真反対の依存した生活を余儀なくされる。そのような祖母の人生であったが、決して不幸な生涯ではなかった。苦労の連続ではあったがその中を精一杯生き抜いた(働きづめ)結果の幸せな晩年だった。