水について考える

水について考えることは生きることについて考えることになる。日本では昔から、生まれた時に産湯をつかい、死に際には末期の水が与えられるように、人の一生は水に始まり、水に終わるといってもいいだろう。

  いうまでもなく水は人間が生きていく上で必要不可欠である。特に災害時には、まず困るのは「水」と「トイレ」だと言われている。トイレはいざとなれば工夫して簡易トイレなど作れるが、水(特に飲み水)はそうはいかない。

  水資源の豊富な日本では、日常生活で水飢饉という実感を覚えることは少ないが、世界では深刻な水不足で命を落とす人たちが大勢いる。栄養不足で飢えに苦しむ人々の数は世界で8億人以上といわれているが、それと密接な関係があるのが水の問題であると言われている。現在、開発途上国を中心に世界の3分の1が水不足の状態にあり、12億の人が安全な水を手に入れることができないでいる。そのため、水に関する病気で毎年200万人もの子どもが命を落としている(国際飢餓対策機構の資料より)。

  ペシャワール会の中村哲医師からの報告もそのことを裏付ける。「私たちの現地活動は、いよいよ核心に迫ってきました。医療から飲み水へ、そして更に灌漑計画を進めて農業=食糧増産へと発展しましたが、決して唐突な変身ではありません。干ばつという追いつめられた状況で、病と抗争の背後には、清潔な飲み水と食糧の不足があるからです」(ペシャワール会報№76)。

  日本の食糧自給率は40%、そのため世界最大の農産物輸入国である。それらを輸入することは、その生産に必要な「農業用水」を間接的に輸入していることになる。たとえば穀物1トンの輸入は水・約1000トンの輸入に相当し、これらを年間で試算すると、日本の生活用水の2.7倍にあたると言われる。このように、食物の輸入を通して、私たちは世界の水問題と密接に関係している。世界の水問題は日本の私たちの問題でもある。目先の儲けや安さ、美味しさに目を奪われることなく、共に生きる地球人として資源を大切にしたい。