1946年、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは、日本人の精神を西洋と比べた日本文化論『菊と刀』を著した。彼女は日本を定義して「恥の文化」といい、西欧の文化を「罪の文化」と呼んで比較した。
実は、ベネディクトの日本文化論の研究は、太平洋戦争が始まって、米国が敵国日本の実情を知るために行われたものだった。米国は早くから戦争のことだけではなく、敵国を支配統治する準備をしていたのである。
「罪の文化」は神と自分との関係において物事をとらえ、人が見ていようといまいが、絶対者なる神の前における自分の態度を問う。一方、「恥の文化」は他人の目に自分がどのように映るかを考えて行動する、と。
70年を過ぎたこの日本文化論は今も通用するだろうか。気になるのは、「他人」が現在ではさらに狭められて、「仲間」(ごくごく内輪の者)の目しか気にしてない風潮がみえることである。いや、もう日本人は「恥」という感情を失ってしまったのかと思われるような光景や破廉恥な事件を毎日のように見聞きする。今話題になっている豊洲問題、森友学園問題、五輪開催の問題などはまさにそうだ。
もともと「罪」意識が薄いといわれている日本人が「恥」意識さえ捨ててしまったら、あとに残るものはなにか。算盤勘定だけのような気がするのは私だけだろうか。悲しいかな、現代の日本人の行動様式(特に政官財の日本のトップの指導者層の倫理観のお粗末さ)を算盤を前にして玉をはじいてみれば、その言動原理が大方理解できるのである。
神に対する畏れを失った人間、宗教的感覚の欠如は何をもたらしたのか。自尊心さえも失ってしまい、恥も外聞もあるものかとばかりのガリガリ亡者の住む世界とはどんな世界?
聖書の「神」は創造主であり、我々と対話される神、平和の君であり、愛の神。その愛に生かされ、愛するようにと励まされるキリスト者の存在は少数であっても貴重であり、責任は重大であろう。世の光、地の塩として。