「問われるほどに愛されて」フィリピの信徒への手紙1章4~11節

この世の中で、人々から無視されたり、関心を持たれないことほど、つらく悲しいことはない。だれかに怒られてがっかりして落ち込んでいる人に「怒られているうちがハナだ」と言って、慰め励ますことがある。家庭において、親子や夫婦の間でも、今日はどんなことがあったのと問い合い、互いに関心を持ち合うことによって、自分は愛されているのだという喜びを持つことができる。ある哲学者の言葉。「愛とはたえざる問いのことだ。人生で、誰も、何も聞いてくれない苦痛」。

 フィリピの信徒たちはパウロから、手紙を受け取った。だれにとっても手紙をもらうということは、嬉しいもの。手紙というのは、私はあなたを覚えている、あなたに深い関心を持っているということの証明でもある。しかもパウロはこの手紙の中で、フィリピの教会の一同に対して、いかに心にかけているかということを繰り返し強調している。7節では「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と述べている。  
 このような愛の心から、祈りが生まれる。まず9節以下で「あなたがたの愛がますます豊かになり……」とある。ここでの愛は、彼らの人間的な愛ではなく、神からの恵みとしていただいている愛である。神の愛(ギリシア語で「アガペー」)は、人間が生まれながらに持っているものでも、努力すれば身についてくるものでもない。ただ上から垂直的に、神からの恵みとして与えられるもの。私たちが通常、愛と言っているものは(ギリシア語で「エロース」「フィリオ」)、美しいものや価値あるもの、大きく強いものに心が引き付けられていくことである。これに対して神の愛は、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛なのである。

 イギリスの小説家、『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスの『四つの愛』の中に、次のような意味のことが書かれている。「愛というものにはいろいろの愛がある。愛情、友情、恋愛など人間の愛は美しいものであるが、バラの花のようにトゲがある。愛の美しさの中に落とし穴があり、滅びに至る危険がある。エゴイスティックな醜いものがある。だからそのような愛が、聖なる愛、神のアガペーの愛によって支えられ、清められ、変えられていく時に、輝く愛になるのだ」と。

 マザー・テレサがある町で、生きているかもわからないような、誰からも知られていない一人のお年寄りを訪ねた時、部屋はひどい状態で、ほこりまみれになっているランプがあった。「なぜランプをつけないのか」と尋ねると、「だれのために。誰も来やしません」と言った。それで「シスターたちがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか」と聞くと、「いいとも」と答えたのである。やがてテレサに伝言があった。「あなたが私の生活にともしてくれた光は今も燃えている」と。

 私たちの人生も、誰からも顧みられないほどに小さく、やがて忘れられていくものに過ぎない。ぱっと消えていく泡沫のよう。しかし10節で「キリストの日に備えて……」と語られている。人生にも総決算の時があって、最後の日、究極の日に、私たちの愛が神から問われるというのである。

 最初の人・アダムとエバに対して、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた(創世記3:9)。神は絶えず問いかけられるのである。私たちはいかに生きたのか、どのような人生であったのか、神は大問題にされるというのである。人間はたえざる神の問いの前に、立たされている。

 しかしこのような問いの背後には、人間に対する神の燃えるような愛がある。問われるほどに、愛されているのである。神は私たち一人ひとりに、深い関心をもっておられるのである。なにがあったの、どうしたの?

 長い歴史や大きな社会から見れば、私たちは無に等しい存在。実際、人から無視されることもある。しかし神だけは心にかけてくださる。そして愛においてどれだけ豊かであるか、と問われるのである。たとえ小さな生涯であっても、心のランプに神の愛の大きな光をともし、ますます輝かせるように求めておられるのである。