私に従って来なさい」 マルコによる福音書1章14-20節

今朝の聖書の箇所に先立つ部分で主イエスは誘惑に会われた。だから、主イエスは、人間が誘惑に会うときの心が分かるし、私たちが誘惑に会うこと自体を悪いことだとか裁いたり、悲しんだりすることはない。確かに誘惑は身近にあり、誘惑に会うことは一度ならず何度もある。それは物欲やお金、地位や名誉、支配欲であったりする。その中で、私たちがサタン(誘惑者、中傷する者)の偽りの言葉に身を委ねてしまうことを心から悲しまれる。そこで、私たちがサタンの支配下におかれてしまうのではなく、そこから解き放たれる道を示してくださった。それが、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」である。この愛の呼びかけを聞くことこそが、サタンの誘惑から解き放たれる道である。

 主イエスが来られたことによって、決定的な救いの「時」が訪れた。「神の国」とは、神の愛の支配するところ。神の支配が及ばないようなところはない。「悔い改める」とは、方向転換をして、神の呼びかけに耳を傾けること、「改心」。そして、「福音を信じる」とは、神の無条件の赦しの愛を信じ受け入れ、その愛の支配の中で生きるということ。その声を聞き、心を神に向けるときに、サタンの支配は崩れ始めるのである。

 人生に荒野がなくなるわけではない。サタンの誘惑にさらされることがなくなるわけではない。しかし、荒野にも神の愛の支配は届いている。そのことを知って、神に信頼して生きるとき、荒野もまた神の国になる。

 17節で主イエスはシモンとアンデレに「私に従って来なさい(口語訳)」と呼びかけられた。この招きに対して、弟子たちは「すぐに網を捨てて従った」とある。しかし、イエスに従うということは、いつでも何もかも捨てて従うということなのだろうか。そうではない。仏教では出家という言葉がある。家を捨て、仕事を捨て、この世を捨てて、仏教の教えにひたすら従う。世捨て人とも言う。でも世を捨ててしまったら、どうして教えをこの世に伝えることができるだろうか。むしろ、この世と関係を持ちながら、ともに生きながらこそ、伝道できるわけで、そうあるべきではないだろうか。主イエスも町や村々を歩き回りながら、教え、宣べ伝え、癒されたと聖書にある。だから、29~31節からは、シモンが、家族との交わりを一切断ち切ったわけではないことが分かる。では、網を捨てて従ったとは、本質的には何を意味するのだろうか。それは主イエスの教えを第一として生きるということである。それまでの彼らにとっては、網が第一だった。網はまさに彼らの人生を支えるものだった。生活の糧、生活そのもの。だからこそ、同時に網は彼らを縛るものでもあった。

 主イエスの教えを第一にするということは、束縛を受けるような気がするが、主イエスのみに縛られて、他のものに縛られなくなることを意味する。別の言い方をすると、第一のものを第一にするとき、かえって本当の自由が与えられるのである。主イエスの教えとは何か。それは神を愛し、隣人を愛しなさい。その教えに生きる人生である。その教えを第一としながら、自らの生活、人生を歩むことである。そして次に、家族や仕事やお金のことなどとどのようにして関わっていくかということが来るわけである。その関りは、第一のものを第一とする中から、おのずと示されてくる。

 また、網を捨てるということは、いつも主イエスと共にいることを意味する。むしろ主イエスと共にいるということが何よりもすばらしいことだから、網を捨てられるのだということができるだろう。主イエスと共に生きる時、平安が与えられ、慰め、励まし、生きる力、知恵、希望が与えられるのである。ぜひ、主イエスと共に歩む恵みを受け取っていただきたいと願う。