「祈りの共同体」 テサロニケの信徒への手紙一 1章2-3節

 祈りは一面においてはまことに孤独なもの。祈ることによって初めて一人、神の御前に出るということを知る。しかし他方、祈りはただ一人祈る時にも他者を思い起こさざるを得ない。パウロは、祈りにおいて、離れているテサロニケの教会の人々を思い起こしている。

 パウロはその祈りの中で、テサロニケの信徒が偶像から離れ、生ける真実の神に仕えるようになった、その信仰と模範(1:7-8)に対して神に感謝している(1:2)。そのことをパウロはここで「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という言葉で語っている。これらの言葉は、コリント人への第一の手紙13章にある、信仰と希望と愛という、いつまでも存続する霊の賜物についての言葉を思い出させる。

 しかも自分にそのような賜物が与えられていてうれしいというのではなく、イエス・キリストの神を父と呼ぶことができる教会の仲間たちに、この大いなる賜物が与えられている現実を「心に留めている」。テサロニケの教会の人々の暮らしぶりに、信仰によって彼らが働いている姿を見ていた。また、愛の労苦に耐えることができている姿を見、望みに根ざした忍耐の歩みが与えられているのを見ていた。信仰も希望も愛も、それが単なるお題目ではなくて、教会の仲間たちの生活ににじみ出てきているのを知るのである。

 祈りは、このようにまず何よりも信仰の仲間たちを思い起こす場所であった。感謝から祈りは始まるというが、その感謝の糧として、このように他者がくっきりと姿を現してくるのである。

 このことだけですでに、祈りがひとりでは成り立たないということ、教会の仲間があってこそ成り立つものであることがわかる。そして、そのように思い起こす人々のために祈るのである。しかもそれだけではない。この手紙の終わりに近いところでは、「兄弟たちよ、私たちのためにも、祈って欲しい」(5:25)と書いている。パウロは求めている。私のためにも祈って欲しい。自分も教会の仲間のために祈る。教会も自分のために祈って欲しい。パウロはよくこうした求めを書いている。教会の祈りの支えなくしては生きていかれないということをよく知っていたのである。

 ある牧師が祈りについて次のような意味のことを書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、検査をしてもらい、薬を処方してもらい、あるいは注射をしてもらう。時には手術も受ける。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことであろう。しかし、信仰者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのである。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれない。しかし、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということである。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいるときにも、しあわせだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。苦しみや、悲しみに自分が打ち勝てるように祈って欲しい。この喜びを共に喜んで神に感謝してほしい。そう言えるのである。

 もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体である。祈り合うのである。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体なのである。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ないのである。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知るさいわいがある。教会に大勢集まっている時の祈りだけではない。私の一人の祈りが、またとりなしの祈りであることは当然である。私たちの祈りがそのようにして、日ごとに少しずつでも広がることが出来ればどんなによいことかと思う。

平塚バプテスト教会

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