【全文】「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 

 みなさんおはようございます。今日もインターネットのみですが、共に礼拝に集えることに感謝します。既に連絡網とHPでご案内のとおり、4月中はこのインターネットでの礼拝参加、会員の皆さんには週報と宣教原稿の郵送し、ご自宅で守っていただく礼拝ということにしました。残念ですが、このようにして礼拝を持てることに感謝しています。どのような1週間でしたでしょうか。なかなかお話する機会がなく、みなさんのお顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みをいっぱいに頂きましょう。

 多くの人が外出の自粛をしています。行政からもそのような要請が出ています。この時期に外出し、多くの人の集まる場所に行くという事は避けたい事柄です。教会以外は外出を控えよう、そんな方もおられるでしょうか。

ある方はこう言われたのだと電話をくれました。「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」周囲にこんな風に言われたそうです。信仰の表明として、感謝の応答として、神様に招かれて教会に行くということ、そのことは毎週私たちが大事にしてきたことです。だからこそ教会にはコロナウイルスの問題の最中でも礼拝を行えば、いつもと変わらない数の人が集ったのです。しかし今は、家族や周囲からは「もう集まりに行くのは止めた方がいい」と言われています。そのような声を聞いています。

 どんなにそう言われても教会でオープンな礼拝をすれば、みなさんは集う、集ったことでしょう。だからこそ教会も葛藤をしていました。私は祈りの中で、今、主はこの会堂に集まって礼拝することを招いておられないのではないか。それぞれの場所で礼拝をすることに招いておられうるのではないか?と感じるようになりました。さまざまな課題がありましたが、教会での礼拝は続け、原稿は郵送する、インターネットで中継するということにして、それぞれの自宅で礼拝を守っていただきました。それぞれの自宅でどのような礼拝を守られたでしょうか。それぞれに恵みと課題のある礼拝だったでしょう。今日もそのようにして礼拝をしています。

 なぜ私たちは、こんな時期にも関わらず、毎週集まることにこだわるのでしょうか。きっぱりと諦めればいいのに、なぜ葛藤するのでしょうか。世の中から見たら、ちょっとわからないでしょう。

 人々から見れば、家族や周囲から見れば、宗教なんてまさしく不要不急の集まりに思えます。今日くらい休んだっていいだろう。落ちくまでは行かなくていいだろう。家族にも反対されるでしょう。

 私たちもその投げかけに戸惑ってしまいます。集まるべきか、今は自宅に留まるべきか悩みます。今このとき、私たちは集まらなくても、自宅でも、一人ひとりでも礼拝はできると気づかされています。しかし、それと同時にでは今までなぜ集まることを大切にしてきたのかが問われるのです。

 もしかすると今までは「なんとなく」や「長年の習慣」で教会に行く、家族への説明はそれで良かったかもしれません。「日曜日くらいは私の自由にさせてもらう」で良かったかもしれません。でも今は違います。「なぜ集まるのか」理由を求められます。私たちも集まる目的と意味を問われるのです。

 私たちはそれに何と答えたらよいでしょうか。私たちが礼拝に集うのは、まず第一に神様が私たちを呼び集めて、呼んでくださっているからです。もちろん私たちが一生懸命時間を作って礼拝をしに行くというのはそうです。でも礼拝は私の決心と実行力で来ているのではありません。何よりもまず先に、神様が呼び集め、招いて下さっているから、集い、礼拝をするのです。

でもこのことは家族にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたらどうでしょう。どんな顔をされるでしょうか。笑われるでしょか、気持ち悪がられるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。

 はぐらかすことはどのようにでもできます。「なんとなく」や「習慣だから」「行かないと気持ちが悪いから」「お友達に会うのが楽しいから」そういう思いも確かにあるものです。でも今は、それでは家族が送り出してくれません。「その程度の事だったら、辞めておけ」と言われるでしょう。

私たちには今、説明責任があるかもしれません。でも説明はうまくできないものです。「私は信仰を一緒にする仲間と集まりましょうと、神様に呼ばれている」「あなただって呼ばれているのよ」そうとしか、私たちは答えられないのです。そう説明してゆくしかないのです。相手にとっては、ばかばかしい答えかもしれません。

 いま大事なのは、愛とか、神とかいうよりも、手洗いうがい、外出自粛だ。その家族の気持ちもわかります。痛いほどわかります。私も半分はそう思うのです。気持ちが揺れます。でも、神様が呼んでいるからやっぱり礼拝に来たのです。会堂のドアを開けたのです。家族との会話はこの点でかみ合いません。自分の思う様には相手がわかってくれません。動いてくれません。そのようなかみ合わない会話になるでしょう。私たちどう説明すればよいか分かりません。ただ招かれているとしか説明できません。今、言っても伝わらないけれど、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。

 「なぜ」という質問に、「神様が招いている」と証しするしか、すべがありません。相手に合わせることだけを考えるなら、私たちは信仰を保つことはできません。かみ合わなくても明かし続ける。それが私たちとの他者との向き合い方です。

 私たちは人と向き合う時、そこには必ずすれ違いが発生します。かみ合わない会話が生まれます。教会に向かう時も、教会の中に来てもそうです。かみ合わない会話、でも神様を証し続けること、私たちはそのように他者と向き合ってゆきたいのです。

 それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。イエス様の他者、この場合はピラトとの向き合い方を見たいのです。そしてそこでの、人々とのかみ合わなさと、それでも証し続ける姿をこの個所から見てゆきたいのです。今日の個所を読みましょう。

 先週はキドロンの谷で捕らえられるイエス様の姿を見てきました。イエス様は、引き渡され、一晩尋問を受けました。肉体は疲れ果てていたでしょう。この世、この地上の王であるピラトは、初めてイエス様という男と出会いました。その姿は、縛られて、家畜のように連れてこられた、ボロボロに疲れた男です。しかし彼はこの国の王だと言っていると告発されています。

ピラトは聞きました「あなたが王か?」と。この世の王から見るとなんと弱々しく、みすぼらしい姿の王でしょう。まるで王には見えないのです。世界を救う存在には見えないのです。ピラトはボロボロになった男に向けて「あなたが王か」と疑問をぶつけたのです。

 それに対してイエス様の応答は分かりづらい答えです。答えと言うよりかは質問で返しています「自分がそう思うのか、それとも誰かにそう聞いたのか」そんな質問です。

 もうちょっとわかりやすく答えてあげられないものでしょうか。「私はこの世の王ではありません。ですから地上で何か悪いことをしようとは考えていません。無罪です」と答えられなかったのでしょうか。

 ピラトが聞きたいことはまさしくそのことです。「自分は王だ」と言って民衆を扇動し帝国に反逆をしようとしているのか、それに対して有罪か無罪か、罪状認否を聞き出そうとしているのです。

 しかし、イエス様の会話はそれとはまったくかみ合っていません。イエス様は自分が有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えて話をするのです。王なのか、何をしたのか、その問いにイエス様は、36節にあるとおり「わたしの国は・・・」と答えるのです。ピラトは有罪が無罪について知りたいのです。その答えを求めるのです。しかしイエス様は「私の国は」と、神の国の話を続けるのです。会話は全くかみ合いません。

 しかし淡々とイエス様は神の国について証しを続けておられます。この世の論理と神の国の会話は成立をしません。会話にならないのです。しかし、イエス様は神の国の証しをし続けます。これはどこか私たちにも重なる個所です。教会とこの世の対話はかみ合わないものです。異なる視点で物事を見ているからです。しかしイエス様はこのように世との対話を続けるお方です。

 イエス様の言葉で今日もっとも印象に残るのは36節です。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。イエス様はこの世に起源をもつのではなく、神様に起源をもつ者だということです。

 この世と神、それは闇と光の違いのように、天と地との違のように隔たりのあることです。まったく起源が違うものです。この世とはその起源において、ルーツにおいて関係のないものです。いわば生まれも育ちもまったく違うから、すれ違うのです。一方がこの世について、一方が神の国について語り、すれ違っているのです。

 まったく違う二人。交わらない二人。闇と光、天と地の様です。でもあることに目を向けたいのです。そこには対話と証しがあるということです。そこには証しがあります。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。そこには全く関係のないものとして二つの世界が、二つの王国があるのではありません。この二つの王国は対話をし、証しがあるのです。

 元来、まったく関係のないはずのものが、イエス様の十字架という出来事によって、対話を始めます。証しが始まります。そのことで二人の王は交わるのです。天と地が、光と闇が、イエス・キリストによって、交わり始めるのです。

 ヨハネ1章5節にはこうあります「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある通りです。闇に光が来る、地に天が押し寄せてくる。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。光は光、闇は闇。あなたはあなた。私は私。しかし、イエス様はその闇の中に来る光です。天から地上に来られた方です。その方とこの世は話がかみ合いません。でもイエス様はここに来られたのです。

 イエス様は「みんなに神様の良さをわかってもらうと思って来た」証しするために来られたのです。違う相手に、自分と全く正反対と思う人のところに、対話と証しをするために来られたのです。はぐらかして一緒にいるためではありません。うやむやにするために来たのではありません。証しをするために来たのです。

 ピラトは質問します。「真理とは何か」。真理とは何でしょうか。真理とは隠れていないものという意味です。表面ばかりを飾り付けたり、取り繕ったり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は真理について証しをするために来られました。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたのです。

 私たちはなぜ神を礼拝し続けるのでしょうか。礼拝に集うのでしょうか。それは神様の導きによってです。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しをするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しをし続けてゆきたいのです。そして礼拝に招かれているものとして、歩みたいのです。一緒に礼拝を続けましょう。また集える日は必ず来ます、それまでそれぞれの場所で、証ししましょう。すれ違っても証しをし続けましょう。

 そしてもう一つ考えておきましょう。それはたとえクリスチャンだけが集まったとしてても同じことがあるということです。私たちは教会にくれば話がかみ合うということではありません。クリスチャン同士でも、教会でもたくさんすれ違うのです。教会でも思いが通じないことがあったではないですか。それはまた集まればすぐ思い出すことです。

 でも私たちは互いに神様を証ししあうから、一緒にいられる集まりです。イエス様が異なる他者と諦めずに対話し、証しを続ける事をお互いが知っているから、私たちは集い続けるのです。私たちはたとえ伝わらなくても互いに証しするものでありたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。「礼拝やってます」そう証しをしてゆきましょう。お祈りします。