【全文】「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝を共にできる恵みを感謝します。私たちの教会はもうしばらくの間、5月いっぱい礼拝は集わない形式をとることとしました。もちろん早く集まりたい思いです。また言葉を交わしたいのです。しかし、今それぞれの場所から礼拝に招かれている、そう信じ、それぞれの場所から精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。また今日予定されていた主の晩餐は出来ませんが、パンとぶどう酒のカードをお送りしてみました。それぞれにイエス様との食卓を覚えてゆきましょう。

今、私たちはそれぞれに、礼拝ということ考えさせられています。宣教も「礼拝は○○」というテーマで続けています。今日は3回目です。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素を見ました。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣ということです。今日からは具体的に私たちが礼拝のプログラムの中でしている、ひとつずつを、考えていきたいと思います。その一回目は「招詞」についてです。礼拝のプログラムを見るとまず最初は前奏、そして招詞と続きます。礼拝を何から始めるのかは、とても重要です。私たちの礼拝は前奏からはじまります。前奏もただのBGMではありません。人々が心を静めるためです。なぜ心を静めるのか、それは神様の招きを聞くためです。招詞、招きの言葉に心を向けるため、神様が今日この私たちを招いてくださっているという言葉を聞くために前奏があります。前奏はそのことを示しているのです。音楽という事については、また改めてまとめて、話をすることとして、今日はこの招きについて考えたいと思います。

招きという事を考える時、今私たちが集わないという形で礼拝をしているということと無関係には考えられません。いま集まれなくなって、気づかされるのは、ウイルスの蔓延以前にも、年齢を重ね、教会の礼拝に来ることができなくなっていた方が大勢いたということです。自分の足ではいけない、誰かの助けを借りないといけない、体調の都合で毎週は行くことができないという方が、以前から大勢いらっしゃいます。いままで毎週礼拝に集っている者には、なかなかその気持ちをわかることができなかったかもしれません。

でも今ならその気持ちが良くわかります。行きたいと願ってもそれが出来ないもどかしさを、今、全員がわかります。神様との出会い、人との出会いを体験する会堂での礼拝に集えない事は「魂の痛み」を感じる事だと知るのです。礼拝に集うことが出来るようになったら、また一生懸命礼拝に集おう、そう強く思っています。そして、それは大切な神様への応答だと思います。神様への精一杯の応答として、もしまた集まれる時が来たら、また毎週欠かさず礼拝に集いたいと思うのです。でも、きっと集う礼拝を再開したとしても、また様々な事情で集うことができない方がいるということ、そのことも忘れたくないのです。今、私たちが痛感している、集うことができない苦しみ、この魂の痛みを忘れないでいたいのです。集えない今、そして再び集えた時、普段集えない方々のために、ますます祈ってゆきたいのです。集えなくなって、教会に行くことができなくなって、それぞれの場所で礼拝の事を考えます。そして今気づくのは、「礼拝で大事なことは、私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が招いてくださっているという事、その事が大事だ」ということです。その招きは、たとえ礼拝に参加できなかったとしても変わらないものです。

招かれているということ、それは神様を知っているかどうかさえ問いません。もし神様を知らなくても、神様の招きは変わらず、豊かに、その方に、私たちに注がれています。それはすべての人に注がれています。あらゆる世界のすべての人々が、すべての命が、神様から礼拝への招きを受けているのです。繰り返します。私たちの事情はまったく関係ありません。私たちがどのような事情があっても、どのような体調になっても、どのような病になっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神さまの招きを受けている者です。礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。

招詞に目を向けましょう。礼拝は第一に、神様の招きです。だからこそ、礼拝の一番初めに、招きの言葉は読まれます。それは礼拝が神様の招きによって始まるということを、とてもよく表しています。今日も一生懸命集った、さあ始めようということではありません。礼拝は私たちの実行力、自発性によって持たれるのではありません。

礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。だから私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めるのです。心を静めて招きの言葉を聞くことから始めるのです。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。礼拝の中でとても大事なことです。礼拝の第一声、それは神の招きの言葉なのです。礼拝で「招詞はなくてもいいか」にはならない。礼拝の招きはとても大事なことなのです。

さて今日の聖書に目を向けてゆきましょう。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。ペテロは漁に出たとあります。漁とは何を示すでしょうか。ルカによる福音書の並行個所5:10によれば、イエス様はペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。漁を、福音を広げる事に例えられたのです。しかし今日のこの福音宣教の漁、まったくうまくいかないのです。一晩中あらゆる方法を試しても、この福音宣教の業は実を結ばなかったのです。

礼拝は神の招きであり、自分達の実行力で執り行うのではないのと同じように、自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ福音宣教はうまくいかなかったのです。一晩中人間が網を投げ、招いても、何も反応が無かった。誰も礼拝には集わなかったのです。

さらに、そこにイエス・キリストが現れるのです。しかし、不思議なのですが、誰もこのイエス様に気づかないのです。いっしょに過ごして、あれほど印象的な人の事をわからないのです。人間の集まり中では、誰もこの人がイエス・キリストだということがわからないということです。人間の主導する集まりの中では、どんなにイエス・キリストが具体的に現されても、人々は神の存在に気付くことがないのです。神様と出会うには、人間が主催する集まりではなく、神が集める集まり、神の招きである礼拝ではなければいけないのです。

だからこそ、そこで、イエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間の力ではなく、神の招きによって始まります。この漁は礼拝と同じです。そして網には持ち上げきれない魚がかかります。その神の招き、礼拝にはもはや人間が支える事ができない程、多くの豊かな実るのです。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。神様の招きによる、神様が主導する礼拝。神様からいただく、恵み大きい礼拝なのです。

網の中には153匹の魚がいたとあります。当時の地中海この地方の海には153種類の魚がいた言われていました。つまりどういうことか、それはすべての種類の魚がその網の中にいたということです。それは神様が、すべての人々を招いていることが示されています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、実はその目で見た時ではなかったのです。見ただけではわからなかった。見てもわからなかったのです。弟子たちは魚がたくさん取れた時、そう全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時、「ああこれこそ神の業、この方はイエスだ」と分かったのです。礼拝でも同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

そしてイエス様はその後、食卓に招いたとあります。これも主の晩餐です。イエス様はきっとパンを分け、弟子たちと食べたでしょう。弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。

本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人の招きが起こされている礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。それによって礼拝そしてその中にある主の晩餐によって、私たちはイエス様を復活のイエスを知る者となるのです。今日は本来でしたら主の晩餐を行う予定でしたが、このことを大切に覚えておきましょう。

私たちの礼拝は招きから始める。網を降ろしてみよという招きから始まる。そしてすべての人が、すべての被造物が礼拝に招かれています。神様の招きそれが私たちの礼拝です。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。この礼拝が神様の招きによって起こされ、すべての人、すべての被造物に開かれていることを覚えよう。それこそが私たちのなすべき礼拝です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は神の招きです。

お祈りします。