【全文】「礼拝は献身」申命記14章22節~29節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝します。集まることができる喜びを感じています。今日は子ども達も集まってくれています。私たちの教会は子ども達を大切にする教会です。一緒に礼拝できること感謝です。またご自宅でインターネットライブで見ている方も共に礼拝できること感謝です。

私たちは今、礼拝とは何か、そんなテーマを12回にわたって考えています。ここまでをおさらいます。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集まり、礼拝はみ言葉が中心とみてきました。今日は礼拝は献身という題で、献金、奉献について考える時を持ちましょう。

私たちは礼拝で献金をするわけですが、礼拝のプログラムを見ますと「奉献」という言葉が使われています。わかりづらい言葉ですし、すこし固い響きをもった言葉です。すんなり献金という言葉を使えばよいと思うかたもいるでしょう。他の教会を調べてみました。手元に34教会の週報がありましたが、奉献という言葉を使っている教会はわずか2教会だけでした。おそらく奉献という言葉を使うのは全国でも5%かそれ以下でしょう。この奉献という言葉に平塚教会は何かこだわりがあるのでしょうか。

奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。実際ここで献げられるのはお金ですから、献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。すぐに献金と書き換えたり、言い換えたりしないで、この奉献という言葉の価値について考えたいのです。奉献、献金の時、私たちはいったいこの時に何を献げているのでしょうか。それはズバリお金なのです。しかしこの時間がお金を献げる時間だというのでは、この事柄を正確に言い表してはいません。私たちの奉献の時、ささげているものは、きっとお金だけではないはずだからです。

奉献という言葉を見返すと、わかりづらいことはありますが、献金という言葉と比較して、「金」の字が入らないことが、より正確に意味を表していると思います。この時間、ただ単にお金を献げる時ではありません。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げていると言えると思います。

 

私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、どんなにその命が小さくても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。だからこそ私たちもお互いの命を大事にしようとします。命が人間のものだったら、人間が自由にすればよいのです。しかし私たちはそのようには考えません。私たちは命の所有者ではありません。全ての命は神様のものです。

お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。自分の自由に使ってよいものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。だから私たちは命もお金もすべてを自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そしてお互いのために使おうと考えるのです。神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦めるのです。

私たちはまず神様に献げ、お返ししすることを選びます。そして、その余ったお金で自分たちの必要を満たすのです。私たちの命と恵みを、自分だけのものとせず、神様にお返し、献げてゆく、そして互いに分かち合うのです。それが私たちの献げ物です。

私たちは奉献の時、ただ単にお金を払うのではありません。自分のものではない恵みを受けて、それをお返しし、分かち合っているのです。

献金は説教に対して謝礼を払うのではありません。願い事を叶えるためのお賽銭でもありません。教会に属するための会費や参加費でもありません。教会を維持運営するためのカンパや参拝料でもありません。神様から罰が無いように払うものでもありません。また神様へのプレゼントでもありません。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。奉献とは献金を超えて、自分自身を献げること、つまり献身をすることと言えるでしょう。

さて、今日の聖書を読みましょう。十分の一を献げよとあります。何%かというのは、らそれぞれに委ねるとして、今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。今日の個所で献げ物をする目的・動機が書かれています。献げ物は神様が怖い、恐ろしいからするのではありません。神様への畏れを学ぶためにあるのです。その畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。自分と互いの命が神様から与えられたものだと知ること、感謝すること、それが神様を畏れるという事です。私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。これが私たちの献げ物です。

 

神様が命を作られたこと、神様がすべての命を大切にされること、それを考え続けるのが教会の役割であり、レビ人、特に教会に関わる牧師や奉仕者の役割です。献げ物はその学びのためにされるものなのです。献げ物は牧師を支える事が目的ではありません。牧師を支えることによって、み言葉を聞き続けるためにあるのです。

そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。家族と一緒に食べたとあります。つまり、献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。

旧約聖書の時代だけではありません。初代教会もそうです。献げ物と分かち合いはセットでした。特に主の晩餐がそうです。みんなが持ってきた食べ物で、主の晩餐が行われたのです。献げ物の時間があって、その後それを分かち合うのが主の晩餐だったのです。献げることは分かち合ってゆくことと一体だったのです。

聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代でも外国にルーツを持つ人の貧困、子どもの貧困、シングルマザーの貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。

私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。今年度10万円が目標です。教会がその一部から、自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。もちろんお金だけに限りません。野宿者に向けてマスクを集めました。品薄が続く中、何百枚も集まりました。それが私たちの信仰です。

また、牧師にいろいろな地域の活動を委ねていくという事そうでしょう。牧師は教会の事だけしていてくださいとは言われません。地域の困窮にも具体的に深く関わるように委託されています。それも献げられたものの分かち合いと言えるでしょう。

聖書によれば、神様に様々なものを献げること、それは自分だけよければいいという思い、まず自分の事が優先ということを超えて、神様に信頼する生き方を示します。

この命は自分のものと考えるのではなく、この命は神様のものと考える生き方です。自分の自由ではなく、神様への感謝のために命とお金を使う、それが献げるということです。献金も奉献もそれは献身といえるでしょう。この身を、この人生を、この命を神様に献げてゆく、献身してゆく、それが献げるという表明です。

献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのは、一番の献身をしたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げて、神に仕えたのがイエス様です。私たちは自分が献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。神様もその痛みを良くご存知なはずです。

この献身、私たちは礼拝の中でしてゆきましょう。神様の恵みと命とお互いを一番感じるのが礼拝の中だからです。礼拝の中で献げものの時をもちましょう。礼拝で献げ物をすることが、私たちの献身を最も良く表すことになると思うのです。それぞれの精一杯を献げて行きましょう。

そして、ご相談です。今後、奉献というこの言葉の表記をどのようにしてゆきましょうか。奉献には大事な意味があります。私はままでの奉献という言葉、分かりづらく固く感じるのでので、変えたいと思っていました。でも豊かな意味があることも知ったのです。もっと、ふさわしい言葉はあるでしょうか。皆さんのお考えもぜひ教えてください。お祈りします。