【全文】「礼拝は続く」ヨハネ17章15節~23節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、うれしく思います。共に精いっぱいの礼拝を捧げてゆきましょう。こどもたちも集ってくれました。新しい子ども室の評判はいろいろです。2週間ほど前にお配りした、執事会の記録に詳しく経緯を載せていますのでどうぞご確認ください。子どもとの礼拝を別にしてしまうのは簡単なのですが、お互いの存在を感じながら礼拝をすることを大事にしたいと願い、この場所で礼拝をしています。みなさんもだいだいいつも同じ席に座る居場所があるように、子ども達にも居場所となればと願っています。

さて、先週は礼拝は派遣というテーマで宣教をしました。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる。そして派遣される私たちと共に、イエス様がいて下さり、私たちは弟子として歩むのだということを考えました。今日は礼拝から派遣された私たちが、その後をどのように歩むのかということについて考えたいと思います。私たちは礼拝というテーマに集中して考えてきましたが、それはともすると教会の中ばかりの、内向きのテーマでした。私たちが礼拝から派遣される場所、そのことに目を向けてゆくことも大事なことです。今日は派遣された後、礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいのです。

 私たちは礼拝に招かれて礼拝に集いました。そして神様の恵みとみ言葉を頂き、共に生きる他者とあいさつし、歌い、お互いの存在を知る、そのような礼拝体験をします。そして礼拝の最後には派遣の時が持たれ、6日間それぞれの場所へと派遣されます。また7日後に再び招かれるまで、それぞれの場所を一生懸命に生きるのです。イエス様の弟子として歩むのです。

 しかし私たちの生きる、私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されるのです。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。

 人種差別、日本ではあまりない。そうとっさに考えてしま私たちは間違えています。それは世界の裏側の出来事ではなく、私たちの身近な出来事です。私たちのすぐそばに、目の前に外国人差別・偏見が多くあるのです。

 ここに『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。学校でも使われることがあるそうです。絵はみなみななみさん、クリスチャンの方が書いています。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。

 こんなストーリーです。あるきょうだいが、登場人物・園子さんの始めた子ども食堂を訪ねてきました。そしてこのきょうだいに虫歯がたくさんあることに気付いたのです。よく聞くと、シングルマザーの母親が生活に困窮し、夜に仕事をしており、子ども達の歯を磨いてあげる事、歯ブラシを買ってあげる事が出来ないというのです。他の人々は、母親のだらしなさを指摘します。あるいは養育できないのに子供を産んだ自己責任、行政の支援を使わない自己責任を問います。嫌なら自分の国に帰れば良いのではないか。あるいは外国人だから仕方がない、ちゃんとやっている外国人もいる、だから自己責任だと繰り返します。まるで安倍政権みたいな意見です。

 私たちは同じ町に住んでいる住民なのに、「外国人だからしょうがない」そう考えてしまうのです。平塚に住む人の貧困の問題は、平塚に住む私たちの問題なのに、私たちはつい「外国人だからしょうがない」そう、差別のまなざしで見てしまうのです。

 コロナで分断された社会で、いままで差別が無いように見えてきたかもしれません。しかし、なにか問題が起こると、すぐに差別は頭を出してきます。日本は中国人を差別し、世界はアジア人を差別するのです。人種やルーツを超えて、世界が連帯し一つになること、格差が無くなることを切に望む期間だったはずなのに、人々の差別と偏見が表面化する期間となってしまいました。

 私たちはどのように共に生きるかを考える群れです。子どもと、あらゆるルーツを持った人と、どうしたら一緒に生きて行けるか、一緒に礼拝をできて行けるかを考える群れです。私たちに何かできることはあるでしょうか。私たちも、こども食堂を始める準備をしていますが、それは世界が共に生きるということの助けになるでしょうか。私たちも子ども食堂を通じてこのような課題に巡りあうようになるのでしょうか。私たちはこのような歪んだ世界に派遣される者たちです。そして教会そのものもこの世に派遣されているものです。私たちは世に派遣された教会から、さらに世へと派遣されるのです。

 このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続けることは難しいことです。自分のためだけではなく、他者のため、神様のために生きようとすることは難しいことです。私たちのどんな決意も、打ち砕かれてしまうのです。私たちにはそれに向かってゆくためにはありあまるほどの力が必要です。必要なのは一方的な恵みの力です。使っても使っても使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として歩むことはできません。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆくのです。

 そして教会自体も世へと派遣されたものと言えるでしょう。世界には、聖なる教会と罪深い世があるのではありません。教会もこの場所へと派遣されているものなのです。この地域に神の国をもたらす、平和と平等をもたらす共同体として、教会が建てられているのです。私たちはそのように、この地域の福音として、立つ役割を持っているのです。

礼拝から派遣されていく私たち。礼拝は一度は終わります。しかし、弟子としての歩みは続きます。礼拝は日曜日に終わるけれども、派遣は続きます。皆さんは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続けるのです。その意味で礼拝は続いていくのです。礼拝の延長線上に私たちの弟子の歩みがあるのです。

 さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。仏教には出家という文化があります。世と隔絶する生き方です。しかし私たちは出家するのではありません。私も出家しているのではありません。私たちは世にあって礼拝をするのです。戸を閉め切って礼拝するのではありません。イエス様が神様に願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。そしてその中にあって、悪い者から私たちを守ってくれるように祈るのです。いろいろな問題に会わないようにではなく、問題に会っても守られるように、イエス様は祈るのです。

 18節、神様はこの地上に、イエス様を人として派遣されました。そして礼拝の最後、今度は私たちがイエス様に派遣される番なのです。19節イエス様が御自分の人生を神様に献げた様に、私たちも神様に人生を献げて行く生き方が求められ、派遣されるのです。7日に一回、礼拝の恵みを頂いて、あふれる恵みをいただいて6日間、それぞれの場所へと派遣されるのです。

 イエス様は私たちの役割も祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。

22節でもそのことは言われます。私たちがひとつであるように、彼らも一つになるようにというのは、イエス様と神様が一つであるように、私たちも堅い結びつきで一つになることができるようにという祈りです。分断が決してほどけない強い関係に、ひとつになるために、私たちは世へと派遣をされてゆくのです。

 そして21節後半です。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」とあります。私たちが分断を一つにしてゆこうとするとき、平和を作りだそうとする時、必ず私たちを通じて神様を知るようになる人が起こされるということです。イエス様が伝わるのは、分断が一つになった所です。分断をひとつにしようとする姿によって、人々はイエス様を知るようになるのです。

 私たちが礼拝から、神様から派遣されていることを知った時、相手に、神様がイエス様を地上に派遣されたことが伝わるようになります。神様を知るようになる。それが伝道・福音宣教になるのです。

 このようにして、私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。

 礼拝は祝祷と派遣で終わります。でも「はい礼拝終了」とはなりません。派遣は続いてゆくものです。私たちの歩みのなかで、その派遣は続いてゆくものなのです。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝をしながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。お祈りします。