【全文】「平和の食べ物」 ヨハネ6章22節~27節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。今日は平和祈念礼拝です。今日から8月いっぱい、平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。今日も子ども達が集ってくれました。子ども達がのびのびといられることは平和の象徴です。平和のない場所に、こどもの笑顔やこどもの笑い声はありません。こどもを大切にする教会は平和を大事する教会でもあると思います。子ども達と共に、声を聞きながら平和を願い、礼拝をしてゆきましょう。

聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。この話は繰り返ししようと思いますが、聖書の平和・シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争によって歪んでいます。そして戦争ではなくても、同じ様に構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。

そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。飛び出ているものは元に戻され、押し込められているところは引き上げられるのがシャロームです。その押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働き、完全な丸にしようとします。その動き・運動がシャロームです。それが十字架の働きです。聖書の平和、それは戦争がないだけではなく、小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。

今日は平和祈念礼拝ですが賛美は出来なくても応答賛美の時にフランシスコの「平和の祈り」という賛美の奏楽をしてはどうかと提案をいただきました。コロナの関係で賛美は許されませんが、後ほど心の中でこの賛美を歌いましょう。いくつか翻訳がありますが、次のような歌詞です。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。

侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。

誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信頼を置かせてください。

絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。

悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。

なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 

この平和の祈りを見てもわかるように、小さくされた場所に、憎しみ、侮辱、分裂、そのような小さくされた人々のいる場所に神様の力が働き、平和・シャローム・完全な丸になるように願う祈りがここでも繰り返されています。

平和は戦争がないことだけではありません。しかしもちろん私たちは戦争がもっとも平和を崩すことだということを知っています。日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略を始めました。自分達だけがこの〇からとび出ようとしました。アジアの国々・人々を侵略し、搾取し、利用し、押し込めることで、自分たちだけが繁栄をしようとしたのです。

繁栄を求める事自体は悪い事ではありません。ただ、誰かを犠牲にして、押し込めてそれをしようとすること、自分だけが繁栄をしようとすること、それは平和を生みません。私たちはアジアに大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。

私たちは8月ひと月、主にある平和を知ろうとしています。いままた日本は75年前の反省を忘れようとしています。世界も忘れようとしています。自分たちの国だけ繁栄すればいいと考えるとどうなるか、私たちは知っていたはずです。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。平和憲法を持つ日本、戦争への反省を繰り返してきた日本。その私たちは、世界の平和、シャロームを実現の歩みを進める事はできるのでしょうか。経済力のある日本が足を引っ張り合う様な過度な国際競争を止め、世界が等しく発展し、置き去りや犠牲を生まない世界の形成を訴える事ができるでしょうか。武力によって世界を変えようとしないこと。そしてそれに断固反対するという声を挙げることができるでしょうか。

そこに必要なものは、何でしょうか。私たちに必要とされるのは、シャロームの丸の下から世界を見る事です。イエス・キリストの十字架から世界を見る事、十字架から平和を考える事です。そして平和のためにできる事をそれぞれがしてゆくことです。それが神様に求められていくことです。

 

今日の聖書個所を読みましょう。6章には5000人の給食、パンが配られる奇跡が描かれています。イエス様は食事を大事にされたお方です。イエス様は食べものや着るものは次元が低いもので、精神的な豊かさを優先されたお方だということではありません。それは食べ物がたくさんある、世界のごく一部の人の考え方です。十字架からこの物語を見たいのです。

イエス様は飢える人々の食事の必要に応えるお方です。人は宗教だけでは生きていけません。食べ物と飲み物が必要です。イエス様はそんな人間の胃袋を満腹にしてくださるお方です。がっちり胃袋を抑えるお方です。そしてあまり物までしっかり集めなさいとまで語り、食べ物を大事にするお方です。

しかし、人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。その食べ物は、恵みのパン、奇跡のパン、感謝のパン、分かち合いのパン、一致を確認するパンでした。それこそまさに完全な丸をイメージする、平和のパンであったはずです。しかし人間はそのパンを自分勝手に理解してしまう時があります。

人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。彼らはパンをくれる人を探します。探し求めます。探しているのはパンです。恵み・奇跡・感謝・分かち合い、しるし、イエス・キリストを探しているのではありませんでした。ただ自分の欲望を満たすことを求め、自らの繁栄を求め、舟を出し、イエスを探していたのです。そのような自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。

イエス様はこのような独善的な欲望を批判します。27節「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」と言います。

イエス様は食べ物には、朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物があると言います。どちらも同じ食べ物です。しかしそれは追い求め方、あるいは動機、用い方によって、滅びにも、永遠の命にもなるというのです。自らの欲望と繁栄を求めて舟を出すとき、その食べ物は必ず滅びへと向かいます。それは朽ちるものとなります。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。

私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は私たちに5000人が一緒にパンを食べる奇跡を通じて、神の恵みの大きさを教えてくださいます。欲望が満たされる喜びではなく、みんな神様のめぐみによって生かされていることを教えてくれます。これを食べ、命を大切に生きなさいと教えてくれます。これは神様の恵みです。命と食べ物は自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。イエス様は私たちに、このように永遠の命、平和を求めなさいと語るのです。

自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。

それが、イエス様の歩み、朽ちない食べ物、永遠に無くならない、平和・シャロームの食べ物、永遠の命にいたるものです。それはイエス様の歩みと生き方を知る事から始まります。イエス様がどのように生きられたのかを知ることから、平和は始まるのです。

平和・シャロームはイエス様が低く、小さくされている場所にいたことを知ることからはじまります。平和はイエス様がこの丸のへこんだ部分の一番下にいたことを、十字架にかかられたことを知るところから始まるのです。

その視点から平和の歩みを起こすことが、永遠の命、朽ちない世界につながってゆくのです。すべての人々が活き活きと輝く世界、それが十字架から始まるのです。

できれば今日私たちは主の晩餐をぜひともしたかったのですが、今日はそうすることができません。しかし私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパン、私たちの心にいただきましょう。

私たちがパンを頂くのは、自分だけのため、自分の満足のためではありません。そのことをよく吟味して食べたいのです。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べ、永遠の命を頂きたいのです。また主の晩餐に預かれること、平和の食べ物を囲むことが出来る事を願っています。お祈りいたします。