【全文】「神様の一体感」ヨハネ10章1節~16節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができること、感謝です。今月は子どもということをテーマにしながら宣教をしています。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちの声を聴きながら共に礼拝をしましょう。

私たちは毎週木曜日10時30分から12時まで、教会の西側にある「こひつじ館」で、幼児向けの集まりを持っています。小さなお子様連れの方であればどこに住んでいる方でも歓迎です。集まって子供たち同士は遊んだり、親たち同士が子育てや日頃のことなどを話しあい、子育てに行き詰らないようにしています。これを手伝ってくださるボランティアさんも募集しています。

先日この「こひつじひろば」に27名の方が来ました。12名の子どもと12名の保護者、3名のスタッフです。子どもたちや保護者の方たちもこの日を楽しみにしてくれている様子です。27名だった日は、久しぶりに集まった、すこし大きな2歳くらいのこどもたちもいて、にぎやかになりました。密にならないように会堂のこどもスペースを解放したところ、礼拝堂の探検をされる方もいました。

この瞬間、平塚バプテスト教会が地域の一つになれた瞬間だったように感じます。この教会が地域に必要とされ、楽しみにされ、頼られている存在だと感じることができました。平塚教会は70年間ずっとこのことを大切にしてきた教会だと思います。今年中止になってしまいましたが、毎年のバザーには、楽しみにしてくれている人がたくさんいました。一年で一番教会に人が集まるのがバザーです。

教会と地域の結びつきは様々な形で持たれています。ホームレス支援やフードバンクに一室を貸し出したり、コンサートやクリスマスなど様々にあります。私たちの教会は地域との一体感がある教会ではないでしょうか。そして子ども食堂も早く始めたいと思っています。平塚の豊原町にある教会として、大きな群れではないけれど、草の根の活動を続けてゆきたいと思います。地域との一体感を感じてゆきたいと思います。もちろんそこから私たちの教会の一員になってくれる方がいたらうれしいのですが、まず私たちが地域の一員になりたい、そう思います。こひつじひろばもこどもが一人、しかもうちの子どもという時期もありました。でも私たちは地域とのかかわりをやめませんでした。関係を待ち続けて、こどもを待ち続けました。

たくさんの方が教会を楽しみにしたり、頼ったりして下さっています。でも私たちのメインコンテンツ、一番大事にしているのは礼拝です。だから緊急の時は礼拝だけに活動を絞りました。それは私たちが礼拝共同体だからです。多くの人に求められ、多くの人に頼られ、礼拝よりたくさんの人が教会に集まります。ときどきどっちが本業かわからなくなる時もあるかもしれません。それは、どこかうれしくもあります。もっと礼拝も増えないのかなと考えるときもありますが大丈夫です。きっとこれを続けることで仲間が増えるはずです。

私たちは地域との結びつきを大事にします。でもそれは会員獲得が目的ではありません。どちらかというと礼拝は私たちの出発点です。様々な活動がありますが、私たちの出発点は礼拝です。神様との結びつきを礼拝で確認することからすべてを始めます。神様が私たちと一緒に歩んでくださり、共にいて下さることを確認する礼拝が私たちの出発点です。神様が共にいる、強く私たちと結びついてくださる、一体となってくださる。だからこそ私たちも、地域や社会の人たちと他者と共に生きよう、そのように歩むのです。

私たちが誰かとつながろうとするのは、神様が私たちとつながろうとして下さるからです。神様は私たちと一体となってくださいます。神様と私たちの一体感、それが私たちと地域との一体感の出発点です。

私たちは礼拝なしに、神様とのつながりを知ることはできません。神様とのつながりを知らずに、私たちは誰かと強くつながることはできません。それはつながってもすぐにほどけてしまうものです。

私たちは、神様が共にいて下さる、その一体感を礼拝で知ります。そしてまた地域で、社会で、それぞれの場所で、私たち自身が他者とつながりあってゆく、その歩みに派遣されます。今日の礼拝でこの聖書の個所から神様との一体感を感じて、またそれぞれに派遣をされてゆきましょう。

 

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所は神殿奉献祭という場面です。神殿奉献祭について説明をします。この祭りは簡単にいうと、神殿を外国から自分たちのもとに取り戻すことができたということを祝う祭りです。紀元前164年シリアが神殿を支配し、神殿には異教の神々がまつられました。しかしユダヤの人々は多くの犠牲を出しながらもシリアを倒し神殿を奪い戻したという出来事、それが神殿奉献祭の始まりです。口語訳では「宮きよめ」とありましたが、宮・神殿から異教を追い出した、汚れた神殿を清めたのを記念する祭りだったという意味です。

この祭りの最中に人々が一番求めていたこと、それはもう一度、宮清めが起こることでした。シリアに代わっていま自分たちを支配しているローマがこのエルサレムから出ていくことを待ちきれないほど、24節気をもませるように、期待したのです。ユダヤの人々はイエス様にその力があるのかどうか見極めようとしました。だからイエス様に迫るのです。24節「もしメシアならば早く言え」と迫ったのです。

しかしどうやらイエス様には、ローマの支配を終わらせるような強い力、軍事力はなさそうです。イエス様は無力な田舎者でした。彼を信じて従ったのはサマリヤの女やガリラヤの無学な漁師です。ユダヤの人々の期待は外れました。宮清めの期待が裏切られた人々は、イエスを殺せと言う様になります。自分の期待通りに動かないならは死んでしまえということです。

相手に利用価値があるかどうか、自分の意に添うように動くかどうかが基準となる関係はとても弱い関係です。いまの首相も自分の意に沿わない人は異動と言い切っていますが、他者ととても細い結びつきしか持たない、薄い関係しかもたない人間です。すぐに見捨てられたり、裏切られたりするでしょう。

しかし、そんな利害関係、利用価値でしか相手を見ることができない人たちにもイエス様はあきらめずに語り続けておられます。25節どんなに響かないと思われる人にも、何度でも語り続ける姿がそこにあります。関わりをやめない、真の関係を作ろうとするイエス様の姿、はっきりと言い切る姿があります。

今日私が一番重要だと思う言葉は、30節「私と父は一つだ」という言葉です。「私と父は一つだ」それは不思議な言葉です。神様とイエス様の二つ、二人の方がおられます。でもそれはひとつだというのです。神様とイエス様、その二つは、とても不思議な結びつきでつながって、ひとつなのです。

ひとつであるとは、イエス様と神様は引き離すことができない関係だということでしょう。人間の結びつきとは時に弱いものです。たとえ親子、兄弟、夫婦であっても、結びつきがほどけてしまうときがあります。しかし神様とイエスは非常強い結びつきです。まさに、ひとつ、一体なのです。ひとつと言われるほどに神様とイエス様は強い結びつきなのです。これに聖霊を加えると三位一体という言葉になります。

そして、イエス様は神様とだけではなく、私たちとも強く結びついてくださるお方です。神様とイエス様が固く結ばれているように、私たちもイエス様と固く結ばれているのです。私たちはイエス様の羊だからです。私たちは、羊飼いであるイエス様の声を聞き分けます。もちろん、時々聞き漏らしたり、間違えたりします。100匹の集団から私1匹だけはぐれてしまうこともあります。でもイエス様は、あなたは私の羊だと言って私たちとともにいて下さるお方です。私たちとどんな時も固く結びついてくださるお方です。

イエス様を信じるとはどんなことでしょうか。イエス様を信じる、イエス様の羊となるということは、何かを強く念じたり、強く思い込むことではありません。それはイエス様との関係に入ることです。イエス様が絶対に離れないと言ってくださる、その関係の中に私も入るということが信じるということです。信じるとは信頼する、イエス様との関係に信頼するということです。イエス様は絶対に私と離れないという信頼に入ることが信じるということです。

その関係に入ると、死ぬことがなくなります。何百歳も生きるのではありません。復活された方、死に打ち勝つ方との関係に入るということです。それが28節滅びない「永遠の命」の中に生きるということです。

私たちはイエス様と特別に強いきずなをいただくものです。それは私たちがしがみつく、すがり付くものではなく、イエス様の方からそのような関係になってくださっているのです。だから私たちを襲うどんな苦境や災難も、イエス様と私たちの関係を壊すことはありません。イエス様と私たちを引き離すものは何もないのです。29節誰も神様との関係から私たちを引き離すことはできないのです。神様の愛から私たちを引き離すものは何もないのです。そのことを信頼して歩みましょう。

神様とイエス様は固い関係で結ばれ、ひとつの関係です。そうであるのと同じように、私たちとイエス様も固い関係で結ばれた、ひとつの関係です。そして私たちはイエス様が私たちと強い関係の中にいて下さるからこそ、地域と、社会と、他者と強い関係を作ることができるのです。それが神様にある一体感です。その一体感を多く人とともに感じたいのです。

こどもをテーマに礼拝をしています。礼拝は、神様が共にいて下さる、その一体感、神様の側から私たちに強く結びついてくださる一体感、そのことを礼拝でも表したいと思います。そして私たちの一体感を大事にしましょう。こどもたちとの一体感を礼拝で大事にしたいのです。神様が私たちと強く結びついてくださるように、私たちも子どもたち、教会の仲間たち、地域の人たちと結びついてゆきたいのです。そして子供たち自身にも、神様からの強い結びつき、一体感を感じてほしいのです。これからも子どもととともに礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。