【全文】「病と死でも続く、神の愛」ヨハネ11章1節~16節

 

 みなさん、おはようございます。今日も礼拝に共に集うことができ感謝です。今日は召天者記念礼拝の時を持ちます。私たちが主のもとに送った仲間たちを覚えてこの礼拝を持ちましょう。そして死を悼むと同時に、残された私たちがどのように生きるのかが今日、問われています。そのことも覚えながらみ言葉に聞いてゆきましょう。

数年前私は、神学校に通いながら十床ほどの小さな病院でアルバイトをしていました。夜勤で、電話番とお見舞いに来る方の対応をする仕事でした。このアルバイトでもっとも緊張するのは末期の患者さんが入院している夜でした。ある患者さんの死期が近くなると、夜の院内はあわただしくなり、そして家族なども続々と集まってきます。やがて入院患者さんは亡くなります。小さな病院でしたので、遺体を安置する場所はありませんでした。ご遺族のお別れが済むと、すぐに葬儀会社が来て、ご遺体を運んでゆきました。葬儀社はあっけないほど早く来るものです。看護師とともに、涙を流す遺族を玄関で見送るのも仕事でした。

病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどありません。無力です。死をもってその人との関係、関わりが終わります。そして翌朝にはまた別の患者さんが同じ病室に入院をしてきます。死に対する無力感が襲いながらも、次から次に患者さんは入院してこられ、無力感に浸っている時間はありません。その無力感はすぐに自分たちが今できること、今生きている患者さんに向きあってゆくことに向けられてゆきました。

その病院にあるときクリスチャンのおばあちゃんが入院されました。死期の迫る方でした。病室にはいつも讃美歌が流されていました。私も時には夜勤のあい間にベッドの横で聖書の朗読をしたり、祈ったりすることがありました。その後亡くなってしまいましたが、なぜだが不思議とその死に無力感を感じることはありませんでした。私たちもコロナ禍が始まってから、この病気で亡くなる方々を見て無力感を覚えることがあるかもしれません。しかし祈りはそこに不思議な力を与えてくれるようです。

教会では今「この病の時、私たちの祈り」という祈りを繰り返し祈っています。特に祈祷会では毎回、声を合わせて祈っています。この祈りの中には医療従事者や困窮者への祈りも含まれています。

そして同時に亡くなった方たちのためにも祈っています。「この病で亡くなられた人を、あなたのもとに迎え入れて下さい」と祈っています。私たちは祈りによって死者との関係を毎週続けています。死んでしまったら関係が終わりと感じることがあるかもしれません。しかし私たちは祈り続けています。祈り続けるという関係において、亡くなった方との関係は終わりではありません。無力ではありません。神様のもとに迎え入れられるようにと祈ることができるという関係が続きます。

この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも神様の下にある命と、私たちの関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。死はすべての終わりではありません。祈りの関係は死で終わるものではありません。地上の命はいったん終わったとしても、私たちが彼らを祈るという関係は続きます。そして私も、死んだ後、きっと今祈られているのと同じように、祈られ続けるでしょう。

私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そしてそれは神様の愛の中にいるという関係です。神様の愛にある関係は変わりません。神様の愛の関係は続くのです。

私たちが亡くなった方を覚えて祈る時、私たちは生死を超えた関係を持ちます。そしてもちろん神様の愛も同じように、生死を超えて続くものです。私たちが今日、亡くなった方々のことを変わらずに祈り続けるように、神様も、いえ神様こそが最も亡くなった方々をいままでと変わらずに愛し続けて下さっているのです。

私たちはどのような生、どのような病の中であっても、祈り続けましょう。亡くなった方々も覚え続けて祈りましょう。そして、誰よりも神様がそうしてくださるお方です。神様は私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。そしてたとえ死に、地上の命を終えたとしても神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。 

 

今日の聖書個所に目を移しましょう。今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。すぐに見舞って励ますのが真の友人でしょう。しかしイエス様の行動は謎です。死が迫っている知らせを聞いてから、なんと2日間もそこに滞在し続けたのです。友人が死にそうなのにずいぶん薄情な人物のように思います。

イエス・キリストは大切な友人の病の知らせを聞いていました。おそらく重篤で死が迫っているとの報告だったでしょう。しかし、すぐに向かわずに、こう言います「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。

「この病気は死で終わらない」とはどんなことを意味するのでしょうか。神様の栄光のためにとは、どのような意味なのでしょうか。難しい言葉ですが、今日の私たちにはこの言葉の意味が分かるような気がします。

そうです、この病気は、コロナも、あるいはどのような病も、死で終わり、死んで終わりではないということです。死で終わらずに、その先に神様との関係が必ず続いているのだということ、そのことを示しています。死によっても神様との関係は終わらない、神様に愛され続けることは変わらないということです。

イエス様は友人の死に立ち会いませんでした。2日の時を動かずに待ちました。それはまるで死ぬ前ではなく、死んだ後に会いに行くことを選んでいるように見えます。イエス様はラザロが生きている間ではなく、すでににおい、埋葬されたラザロに会いに行くことを選んだのです。それがイエス・キリストでした。14・15節を見ると「さあ死んだラザロに会いに行こう」と言っているようにも見えます。

イエス様はそのように、死を超えて、死で終わらず、死んだにも関わらず、関係を持とうとするお方です。確かにラザロの地上の命は終わりました。しかしイエス様にとっては神の愛は死で終わるものではありませんでした。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。

イエス様は11節で死んだラザロのことを眠っているのだと言います。死を眠りと表現しています。イエス様は死をすべて終わりではなく、眠りのように過ぎていく一時的な時とみています。イエス様は死をすべての終わりとして受け止めていません。眠っている間のように関係が続くのだと言うのです。

12節、弟子たちにはその意味が分かりません。私たちにもよくわかりません。やはり死はすべての終わりだと感じ、その人との関係は終わったものと思ってしまうものです。

イエス様は今日の個所で、死ですべてが終わるわけではないということ、人と神の関係は死で終わるものではないということを伝えようとしました。イエス様がすでに死んだ者に、死者にこそ関わる姿によって、死んでも神様との関係が続くということを伝えようとしました。それを信じるように、私たちに示してくださいました。イエス様は言います「さあ行こう」「さあ死んだラザロに会いに行こう」と言うのです。

このように死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。様々な背景をもって亡くなった方がいます。信仰をもって亡くなった方、もう少しで信仰を持とうとしていた方、信仰とは遠かった方。その全員と今日私たちは同じ愛の中にいます。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。この物語はラザロの病から死までずっと神様が愛し、貫いているということを伝えています。これが無条件の愛です。神様が愛し続けて下さっているから、関係が続いているからこそ、私たちは祈りによってつながり続けることができるのです。神に愛されている者として、私たちの関係も変わらずに続くのです。

さて聖書を読み進めてゆくと、この後今度はイエス様ご自身が死ぬことになります。そうです。十字架にかけられて殺されてしまうのです。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。

イエス様は復活し、再び私たちに関わってくださいました、今も関わり続けて下さっているということを知っています。イエス様がご自身の死をもって、死がすべての終わりではないことを示したのです。ラザロを通じて、ご自分の十字架を通じて、神様の愛はずっと続くのだと語っているのです。

今コロナ禍、自死、多死社会に生きる私たちです。今のこの地上の命を大事にしてゆきましょう。生きていればよいことがある、生きていてよかったと思えることがあるはずです。そして同時に死を受け止めましょう。死はすべての終わりではありません。神様が愛してくださっているその関係がずっと続くのです。

むしろ死は新しい関係の始まりともいえるでしょうか。残されたものはどう生きるかを問う始まりになります。イエス・キリストの十字架がまさにそうでした。その死は私たちに新しい関係を起こしたのです。新しい関係、死を超えて神の愛は続くという関係に気づかせてくれたのです。

今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。どう生きるかという問いを考えるためです。今日一人一人が死の意味を問われています。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共に主イエスの十字架から日々を出発したいのです。お祈りします。