みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を持つことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。
先日新聞の記事にもなっていましたが、いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年の犯罪はこれまで何度も厳罰化されてきましたが、さらなる厳罰化が進められようとしています。
通常20歳未満の未成年が罪を犯すと、処罰よりも保護や更生、教育が優先されます。更生に期待し、刑罰よりも教育が重視されてきました。しかし一方で少年法は犯罪に甘い、もっと刑罰を重くすべきだという声は根強くあります。
現在、少年法の対象を20歳未満から、18歳未満に引き下げること、18歳以上は大人と同じ罰を受けることが議論されています。結局今のところは、対象年齢の一律の引き下げは見送られる方針ですが、強盗などの一部の犯罪で20歳未満という基準を18歳未満に変更をしてはどうかと提案がされています。来年度の国会で議論されることになります。
少年犯罪への厳罰化の背景には少年犯罪の増加・凶悪化があるかと思えば、そうではありません。実は少年犯罪は減少し続け、この10年で軽微なもの、重いものどちらの少年犯罪も大幅に減少し、戦後最低を更新したそうです。今の子どもたちが凶悪化していることなど決してありません。私たちが少年凶悪犯が増えていると感じるのは、マスコミの報道が原因でしょう。少数の凶悪事件をことさら報道し続けることで、社会に間違ったイメージを植え付けています。若者はすぐキレる、怖い、凶暴化している、社会の敵と刷り込まれているのです。
少年犯罪は減少しているにも関わらず、厳罰化が求められています。本来罪を犯した少年、未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。
正しく導く関わり、人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされているのではないでしょうか。日本は過ちを犯した未成年を保護し、更生する社会から、厳しい処罰を加えようとする社会に変わろうとしています。本当は罰ではなく、愛が必要なはずです。
罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人はやり直せるではないですか。人は生まれ変われるではないですか。
私たちだって毎週変わりたい、それを願って礼拝をしているのではないでしょうか。罰せられるのではなく愛されることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。子どもであればなおさらです。罪を犯した少年を、社会の敵としてはではなく、もう一度共に命の大切さを知る者として共に生きることはできないでしょうか。今日の子どもと共にある礼拝のように、子どもを受け止め大切にする社会にできないでしょうか。
今日このことを聖書から聞いてゆきたいのです。今日は聖書の「愛敵命令」と呼ばれる個所です。神様は隣人を愛しなさいというだけではなく、敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。相手に条件を付けずに愛しなさいと言います。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことを今日の個所からいただきましょう。
今日の聖書の個所を見ましょう。39節、右のほほを殴られたら、反対側のほほを差し出しなさいと聖書は語ります。そもそも、殴られない様にするにはどうすればよいでしょうか。殴られるのは、相手に抵抗するからです。殴られないためには相手の言うことに従えばよいのです。間違っている、絶対におかしいと思っていても、我慢し、無言で従えば殴られることはありません。
しかし間違っていると思う相手に正直に反対を表明する時、その人は殴られるのです。我慢するか、殴られるかを迫られて、我慢しない、負けないと選択する時、人は殴られるのです。
今の日本では、人事が暴力的に扱われます。政権に文句を言う人は不利益を得ます。今の政治に例えるなら、人事で不利益を受けたくなければ、改ざんしようがうそをつこうが政権の言うとおりに従わなければいけません。日本でもごく一部の人は、報復の人事が怖くても、毅然と間違えだと語っています。
この個所は、私たちはやられても、絶対やり返すなということだけではなく、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めています。私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。
イエス様は暴力で報復することを否定します。やられたらやりかえすのではありません。暴力に暴力で抵抗するのではありません。罪に罰で対処するのではありません。あらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。
私は今、勇ましく、暴力に毅然と立ち向かおうと言いましたが、聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。まさか敵と思えるような相手に、毅然と立つことはできても、愛することなどできるでしょうか。
自分に暴力で向かってくる相手を愛することなどできないものです。愛とは感情ではなく、相手を大切にすることです。別に抱きしめたいほど強い愛情を持つことを命令されているわけではありません。でも大切にするということだとしても、私たちは暴力で向かってくる相手にそれができるでしょうか。暴力で向かってくる相手を大切にすることできるでしょうか。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。報復と制裁、罰ではなく、愛することができるでしょうか。
家族とでさえ、ご近所とでさえ、教会の仲間とでさえ、愛し合うことができない私たちです。傷つけ合ってしまう私たちです。にもかかわらず、私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして隣人のみならず、敵を愛することなどできるでしょうか。
聖書の教えは素晴らしいと思います。敵を愛せという言葉は人々の胸に響く言葉です。しかし敵を愛しましょうという聖書の言葉を読むとき、私たちは冷や汗をかきます。素晴らしい教えですが、それは本当に難しいことです。私はキリスト教の教えは素晴らしいと思いながらも、それを実践できないクリスチャンです。人は隣人を、敵を愛したいと願いながらも、愛せる時と愛せない時があるのです。
でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。
神様は隣人を愛しなさいと言います。そう、神様は隣人を愛するお方です。隣人とはたとえば神様を信じ、神様に従う仲間のことです。神様はご自分に従う者たちを愛するお方なのです。そして神様は敵でさえも愛せといいます。なによりもまず神様ご自身が敵を愛するお方です。自分に暴力で向かってくる人も、神様は愛するのです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。
神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。
神様はこの点で不公平です。神様は罪を犯した人も愛します。こどもならなおさら愛するでしょう。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように、神様の愛は無条件なのです。
私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいるでしょう。敵を愛したいと思っても、身体はなかなか動かない、そのはざまにいます。でも神様は違います。すでにすべての人を無条件に愛してくださっているお方です。神様はその命を大切に思ってくださっているのです。私たちには人を愛する限界があります。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。
そうした方が人生や社会がうまくいくから愛しましょうというではありません。愛することで、人生が、社会がうまくいくようになるから、愛するわけではありません。愛はそのような「手段」ではありません。愛はそれ自体が目的です。愛することそれ自体が目的です。神は愛です。神様の命を大切にすること、そのこと自体に意味があるのです。愛することで人生や社会がうまくいかかどうかはわかりません。でも私たちは敵を愛したいのです。大切にしたいのです。神は愛だからです。
私たちは個人で、そして社会で罪と暴力に向き合いたいと思います。そして悪に対して罰や暴力ではなく、毅然とした態度で生きたいと思います。そして罰や報復ではなく愛に生きたいと願います。
イエス・キリストがまさに地上でその歩みをされたお方です。たとえ十字架につけられたとしても、人々を愛し続けたお方です。その暴力に十字架で向きあわれたお方です。
誰よりも神様が、このように向き合い愛してくださいます。神様は無条件に愛するお方です。愛に条件を付けないお方です。私たちもそのように生きたいのです。そのように生きることが、44節天の父の子として生きる、神の子として生きることなのでしょう。
今日も私たちは聖書のみ言葉をいただきました。48節簡単に、完全な者になることができない私たちです。しかし、私たちの不完全さにも関わらず、完全な神は私たちを愛してくださいます。だからこそ愛し合いたいのです。悪と罪と敵に罰ではなく、愛で向き合いたいのです。その希望を胸に、この1週間を愛をもって歩みましょう。お祈りいたします。