【全文】「神は待たせる」マタイ24章36節~44節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。子どもたちも共に礼拝をしています。私たちは子どもを大切にする教会です。日々成長する子どもたちを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

またコロナウイルスが再流行の兆しを見せています。寒くなってきましたが、礼拝前後の換気にご協力ください。どうぞ温かい格好でお越しください。もし体調がすぐれない場合は、無理なさらずにご自宅で礼拝をささげて下さい。ライブ配信をしています。

今日はこの後、クリスマスの飾り付けを行います。飾り付けは見るのもそうですが、飾り付けが面白いものです。クリスマスが近づいてきていることを一番実感できるタイミングでしょう。

今日から教会はアドベントに入ります。日本語ではこのアドベントを「待降節」と呼びます。イエス様が天から地上に「降」りて生まれるそのことを「待」つ季「節」です。イエス・キリストの誕生日を待ち望む4週間を持ちます。今年のアドベントは「待つ」ということをテーマに見てゆきたいと思っています。

アドベントという言葉はよく、アドベンチャーと同じ語源だと言われます。今年は本当にアドベンチャーがない1年だったと思います。待ってばかりの1年だったと感じます。私たちは今年、とにかく待たされた1年でした。

いろいろな行事の準備をしていましたがコロナの影響で、ぎりぎりまで検討し、延期・中止・縮小を決定しました。バザーや集会がなかったことを残念に思います。

教会の行事ならまだしも多くの人々は人生において待つことを強いられました。学生は学校の授業開始を待たされました。修学旅行も待たされました。就職も待たされました。結婚式も待て。病院に行くのも待て。手術も待て。待て待て待て待て待て待て。家で待たされるばかりの1年でした。人々はもうこれ以上待つのに飽き飽きしています。日本語では待降節と書きますが、また待つのですか。私たちはもう十分に待ったでしょう。

待ってばかりの中でしたが、待ってくれないものがあることも知りました。コロナの中でも子どもたちの成長は待ってくれません。少し集わないうちにどんどん大きくなってゆきました。おなかの赤ちゃんの成長も、妊婦の出産も待ってくれません。人の死も待ってはくれません。命の事については私たちがコントールできないスピードで進んでゆきます。命の事で焦ったり、無理したりしてはダメなのだと教えられました。

命の始まり、その成長、命の終わりは、コロナの中でも待ってくれたり、早くなったりはしません。コロナよりももっと大きな力がそこに働き、そのスピードと時が決まるのです。でも必ず来るその時を待つことが大事なのでしょう。

待たされて気づくことが多くありました。私たちはもともと急ぎすぎていたかもしれません。忙しすぎたかもしれません。私たちは待たされて、日常の大切さを知りました。近所の風景が違って見えるという体験をしました。

そして待たされて、礼拝の大事さも知ったでしょう。オンラインでもできるけど、教会に来る事自体に大切な意味があるということを知ったのです。心だけではなく身体が集まる喜びを改めて知ったのです。そして礼拝以外をやめて、礼拝が教会の中心であることをもう一度知りました。その点では待つことも悪くなかったと思う私たちです。

少しずつ行事は再開しているものがありますが、私たちには新しい気づきがあります。私たちはただ単に元に戻る希望ではなく、新しい希望が来ることを待ちたいと思います。以前に戻ることではなく、以前よりももっと大きな新しい希望を期待して、もうしばらくの間待ちたいのです。

それはただじっと座って待つのとは違うでしょう。希望に向けて祈って待つということです。赤ちゃんの誕生を祈って待つように、病床で死を迎える人を祈りながら送るように、祈ってその時を待ちたいのです。

この「待降節」、待つことにあきあきした私たちに、神様はもう一度待つように語っています。コロナ禍で私たちは様々なことを「待つ」経験をしました。このアドベント・待降節もイエス様がクリスマスにもう一度私たちの心に来てくださるように、待つ時です。アドベント・待降節の4週間、一緒に祈って、待ち続けましょう。主イエスがもう一度私たちの心に来てくださるように、祈って待ちましょう。

 

今日の個所の個所をお読みしましょう。今日は祈りながら待つことがテーマです。神様は私たちを待たせるお方です。今日の個所ではイエス様が再び来られる日をどのように待つべきかということが語られています。再びイエスが地上に現れることを、再臨と言います。最後の時にイエス様がもう一度地上に現れるということが起こります。

 

イエス様がいつ来られるのか、その日付は誰にもわかりません。それは神様が決める時だからです。神様の事柄を、そのタイミングを私たちは決めたり、ずらしたりすることができません。生まれる日、死ぬ日、成長のスピードは私たちが決めることができないのです。ただ私たちに知らされているのは、イエス様は必ず来るという確かさだけです。必ず来る、だから私たちはその日まで待つしかないのです。

いつ来るかわからない事のたとえとして聖書はノアの箱舟の話を引用しています。38節、ノアの箱舟に乗らなかった人々は、飲食を共にしたり、結婚式のような大規模集会を開いたり、普段と変わらない生活を過ごしていました。そんなあるとき突然、大洪水の禍が起きて、初めて自分が決められない時があるということを彼らは知ったのです。

その禍は生活を共にした人の命を奪いました。40節、臼を引く女性の一人を、畑で働く人の一人の命を奪いました。43節の泥棒も同じです。いつ来るかわかりません。洪水も、泥棒も、そしてコロナもいつ来るかわからない、いつ終わるかもわからないものです。突然日常に起こされて、私たちの生活はそれによって大きく変えられてしまうのです。

悲しみ、苦しみ、感染症は突然私たちを襲います。コロナは神が私たちに与えた試練だとは私は思いません。しかし神様の起こすことは、それと同じくらい突然に起こるのだと聖書は語ります。私たちには予測することも、決めることもできないタイミングで、神様の出来事は起こされるのです。その中で私たちにできることは、ただ神様の時を待つことしかありません。神様がいつか私たちの下に来るはず、確かに来ると信じ、待つことしかできないのです。私たちにはその時を動かす力はありません。待つしかないのです。しかしその中で、今日イエス様は私たちに待ち方を教えています。待つことしかできないけれど、待ち方があるというのです。

42節には「目を覚ましていなさい」とあります。私たちは眠らないで待っていることはできません。礼拝でも眠ってしまいますから。眠らない事はできません。イエス様は眠らないで待てと言っているのではありません。実はイエス様は別の個所でも「目を覚ましていなさい」と言って待つことを教えています。それはゲッセマネでの出来事です。

イエス様はマタイ26章38節ゲッセマネでご自分が祈っている間、弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。しかし弟子たちは本当に眠ってしまい、再び来られたイエス様はもう一度弟子たちに言います。今度は26章41節「目を覚まして祈っていなさい」、そう言ったのです。

実はこの言葉はイエス様が弟子に直接語った最後の言葉でもあります。イエス様が行ったり来たりしながら、弟子に眠らずに目を覚ましていなさ言うという場面は今日の場面とどこか似ています。イエス様が伝えようとしていることはこのことでしょう。目を覚まして待ちなさいとは、祈って待ちなさいという意味です。

イエス様は私たちに、神の時は動かすことはできない、でもだからといってただ座って待つのではなく、祈って待ちなさいと教えられているのです。祈って神様の時が、神様の業が起こるのを待ちなさいと言っているのです。そしてもちろん「目を覚ましていなさい」とはこの後の困難をよく見て起きないという意味も含むでしょう。苦難を、十字架を、復活をよく見るようにとの言葉です。

今日の個所「目を覚ましていなさい」とは、私たちにはその時がいつかはわからないけれども、祈りながら待ちなさいという意味です。私たちも目を覚ましていましょう。

私たちは食べたり飲んだりするだけではなく、祈って待ちましょう。私たちはコロナの終息を寝て待つ、ただ座って待つのではなく、祈って待ちましょう。そして私たちはクリスマスを祈って待ちましょう。ただ待つ、寝て待つのではく、祈ってクリスマスを待ちましょう。クリスマスは神様が私たちにイエス様を送って下さったことを喜ぶときです。

神様はすでにイエス・キリストを私たちに送って下さいました。それはすでに起こされています。しかし、もう一度クリスマスにイエス様を自分の心の真ん中に迎えてみてはどうでしょうか。クリスマスの時に、私たちの心の中にもう一度イエス様が来て下さるように、祈って待ってみてはどうでしょうか。それが待降節なのではないでしょうか。私たちの日常には待たなければならないことがたくさんあります。焦る気持ち、早く進めたい気持ちがあります。でもそれも祈って待ってみてはどうでしょうか。

今年はいつもと違うクリスマスです。あわただしさのない、静かなクリスマスです。何かを祈って待つには良いかもしれません。

毎年と同じクリスマスが迎えられるように願うのではなく、コロナ禍を経て今までとは違う新しい思いを頂くこと、新しい信仰を頂くこと、新しい希望を頂くことを祈ります。クリスマスまで一緒に祈ってゆきましょう。

確かに神様は私たちの下へ来てくださいます。クリスマスは必ず来ます。その時まで私たちは、目覚めて、祈って、待ちたいのです。そこにイエス様が必ず来てくださるはずです。お祈りをいたします。